信仰

医療は煩悩か(続)

前の記事(「医療は煩悩か」)で問題提起をしたので、今度はそれに答えるべく考えてみたい。 臓器移植や再生医療に関わる生命倫理の問題は、宗教の立場からも様々に扱われているが、行き過ぎた科学や医学に対する反対の立場であることが多い気がしている。科…

医療は煩悩か

医学にも通じる生命科学を研究している一人として、医療を行うことが単なる煩悩の発露であるとすれば、ひじょうに悩ましいことだ。 たとえば他人の臓器を移植して初めて、自分あるいは大切な人の生命が助かるというとき、もし、その臓器提供者の生命を軽んじ…

お念仏の利益の感触

何が善であり何が悪なのかは、結局、智慧の眼の開けていない凡夫には、わからない。お念仏だけは、すればよいのはわかる。しかしほかのことの善悪の判断はつかない。正しいと信じてやっていることもどこで間違っているかわからないし、何かを絶対に間違って…

念仏の現世利益

実体化用論の唯一の根拠はおそらく偽撰だろう。それでも、お念仏によって自分の人生がどう変わるか、という念仏の現世利益を考えていくと、実体化用論に似通った思想に漂着しがちである。その意味で、この実体化用論について考えることは大切だと思うのであ…

実体化用論

じったいけゆう【実体化用】仏の本体とその活動。聖覚作と伝えられる『大原談義聞書鈔』の第三問答に出る説で、浄土門はもっぱら往生するまでを説いて、仏の本体である真如実相とか生仏一如の理を説かないとの聖道門からの非難に答えたもの。すなわち阿弥陀…

実体化用論

おおはらだんぎききがきしょう【大原談義聞書抄】一巻(浄全一四)。聖覚撰。法然上人が一一八六年(文治二)の秋、天台座主顕真の特請によって、洛北大原勝林院において、各宗の碩学を集めて浄土宗義についての座談会が行なわれた。そのとき参集した碩学と…

学と実践

宗教について学ぶことと、それを実践するのは、まったく別物である。 お念仏の心がまえとして三心がある。三心について学ぶのと、実際にそれを心に持つのとは、まったく別である。法然上人は、ある人には三心とは何かをくわしく教えたが、ある人には「ただ往…

科学の信と宗教の信

「発掘!あるある大事典II」の納豆ダイエットの番組内容に捏造が発覚した事件に関連して、視聴者の側にも情報の取捨選択をするアタマが求められている。僕も科学者として、バラエティ番組があつかう科学情報にマユツバが多い(実験の反復数が少なかったり、…

念仏によってなぜ救われるか

以前の記事へのコメントでいただいた問題。僕もよくこれを考えたが、理屈をこねるほど実践は失せていった。理屈は信仰を外から眺めるものであり、中に入って実践するのとは大きく異なる。以下は昔こねた理屈の一例。 本当は苦はない。死もない。この肉と心ば…

滅罪は心の浄化?

善導大師の明五種増上縁義には、お念仏の現世利益として「護念」のほかに、「滅罪」「見仏」が示されている。「滅罪」にも、心の浄化作用についてのヒントがないだろうか? 三部経の中で滅罪が説かれるのは、主に観無量寿経である。心を静めて浄土の光景や菩…

護念による浄化作用

お念仏の浄化作用によって、僕は仏菩薩や聖人君子のようになれるのだろうか? 心の浄化というのは現世での利益である。手はじめに選択集を見ると、現世利益については、観音・勢至の護念に触れられており(第十一章)、上の問いについての手がかりとできる。…

ふたりの阿弥陀様?

お念仏することで自分に変化がおこるか、が僕のテーマである。変化がおこるというヒントはたくさんある。それは、阿弥陀様の光明による煩悩の消滅であり、換言すれば滅罪増上縁・護念増上縁による現世利益だ。このように、お念仏する人には、心が浄化される…

どう生きる(7)回向発願心

ひとりの凡夫として、命をかけて家族を愛し、仕事に打ち込む。愛せば愛すほど、打ち込めば打ち込むほど、凡夫の性がつけいる隙も増える。悩む機会も多くなる。しかしそれが浄土を願うこころを増大させ、僕をますますお念仏に向かわせる(往相)。 一日三万遍…

どう生きる(6)所帰・所求・去行

阿弥陀様は、僕をこの世で仏にしようというのではない。この世を極楽にしろというのではない。そんなことは祈らない。僕に凡夫の性があるから、道を踏みはずさないように、ぶじに念仏をつづけて往生できるようにと、護ってくださるのだ。 そのおかげで、凡夫…

どう生きる(5)「光明歎徳章」からのヒント

阿弥陀様の光明は偉大である。無量光仏はじめ、「光」のつく十二の名でたたえられている。この光に会うと、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩が滅して、身心とも柔軟になり、踊りだしたいほどの喜びがおこって、善の心が生まれる。苦しみがやんで、悩みは消え、臨終の…

どう生きる(4)「摂取不捨」からのヒント

阿弥陀様の光明は広く照らすけれども、とくに念仏する人には別の光が照らして、摂取し、お捨てにならない。この光とは、阿弥陀様との三つの関係(親縁・近縁・増上縁)だ。親縁とは、阿弥陀様を礼し見守られる、思い思われの、名を呼び聞いてもらう関係。近…

どう生きる(3)「浄土宗略抄」からのヒント

念仏する者は、阿弥陀様は言うまでもなく、六方恒沙の諸仏、観音・勢至・諸菩薩、諸天諸神によって、影のごとくに付き添われ、護られる。その護りによって、心の中の悪鬼悪神は影をひそめる。 病などの不幸に見舞われても、それによって深刻に悩むことはない…

どう生きる(2)「二河白道」からのヒント

大慈悲の阿弥陀様の在ることをみずから納得すれば、その大慈悲にやすらぎを感じざるをえず、その与えて下さろうとするものを期待せざるを得ない。これが清浄願往生心である。白き道にたとえられる。 人は愛欲におぼれやすい生き物であり、激情に焦がされやす…

どう生きる(1)僕の問題意識

僕には、家族への愛がある。これは無明からくる盲目的な愛なのか。少しでも菩薩の慈悲のような愛が混じっているのか。自分では後者だと思っていても、実際には判断できない。 仕事にはやりがいを感じる。これは名誉や自尊など自己の欲望、生の快楽を享受した…

心の中をときほぐしてみた

死を覚悟したとき、阿弥陀様がいた。前から知っている、僕を包み込むような阿弥陀様。だが、決してそれだけではなかった。 僕が死んでしまったら、残された家族は嘆き悲しむだろう。父の死を理解すらできない赤子もいる。笑顔に満ちたあの生活はもどらない。…

交通事故

先々週のことですが、通勤中に交通事故にあいました。歩道を歩いていたところ、不注意運転の自動車が進入し、後方から衝突されたのです。意識はずっとありましたが、重傷を負って、しばらく入院していました。まだ完治はしていませんが、ブログを書けるくら…

「功徳はなぜ廻向できるの?」藤本晃(国書刊行会)

某掲示板の紹介を読んで、購入しました。 何か善いことをしたら、その人の心の中には良いものが生まれます。それが功徳です。心の中のものですから、Aさんの功徳をBさんに贈ることはできません。そして功徳はその人によい結果をもたらします。逆に悪いこと…

『「さとり」と「廻向」 大乗仏教の成立』梶山雄一

小泉八雲の「かけひき」という小説の一場面。失敗を犯したある下男が、主人に手打ちにされる。 下男「殺さないでください。もし殺したら、この恨みはきっと返してやります」 主人「ならば、恨みを見せてみよ。首をはねたあと、目の前の石に噛みついてみよ」 …

自分は向上するか

この人生に、実際、お念仏はどう利いてくるのだろうか。そんな若い念仏者のつぶやきに、椎尾弁匡師の教えは、とてもエネルギッシュに答えてくれそうだった。しかし戦前・戦中の師の軌跡を見ると、それは自分に注意をうながしているようにも感じられた。確か…

「近代日本の仏教家と戦争―共生の倫理との矛盾」栄沢幸二

椎尾弁匡(1876-1971)は大正・昭和期の浄土宗の僧であり仏教学者。 一切のものは「縁」によってできあがってゆくのであり、共生している。たとえば、この私は、先祖・両親・社会・国家などのお陰の力によって現れてきたものである。それどころか自分は、親…

再び念仏の現世利益

お念仏が、死後の行き先の解決ばかりでなく、この世の生き方にも影響をおよぼすのでなかったら、自分は人にお念仏をおすすめできない。そう思って、お念仏の可能性を実感しようとしてきた。 つきあたった壁は、しごとをしているとお念仏を忘れてしまうこと。…

念仏の現世利益

念仏の実験は、お念仏によって自分がどう変わるかの実体験。迷いばかりで確信なく、人やまわりを苦しめてばかりの自分が、お念仏してもそのまま変わらないのか、お念仏に利益あって少しでも変わることができるのか。 いかにしても克服しがたいこの自己の愚か…

当たり前の世界の奇跡

お釈迦さまが「生きることは苦である」ということを出発点になさったというのはよく知られています。しかし、これは出発点であって、終着点ではありません。すでにさとりを開いたお釈迦さまにとって、生きることも死ぬことも苦ではなかったはず。 いつも当た…

三心

お念仏のこころがまえを示した「それなりの動機」「お慈悲の確信」「何をするにもお慈悲を味わう」は、ひとつのこころの三つの側面です。むずかしいことを言わなくても、「ただお念仏して極楽に往生するのだ」と思うなかに、すべて自然に含まれてくるもので…

菩薩になれ

人はひとりで生きているのではありません。いろいろな人と直接・間接にかかわりをもって生きています。人々から恩恵をうけて生活し、逆に人々に奉仕しながら生きています。ですが、人から良くしてもらうのはたやすいけれど、人に奉仕するのはエネルギーが必…