念仏によってなぜ救われるか

以前の記事へのコメントでいただいた問題。僕もよくこれを考えたが、理屈をこねるほど実践は失せていった。理屈は信仰を外から眺めるものであり、中に入って実践するのとは大きく異なる。以下は昔こねた理屈の一例。
本当は苦はない。死もない。この肉と心ばかりを自分と思っているが、自己は宇宙大、あなたもわたしも自分だからだ。形なき世界。しかし僕は自己をこの肉と心に限定し、肉と心の傷つき死ぬのをおそれ、あなたとわたしは争い、苦を感ずる。これはすべて生きる者に生きるために負わせられた性質である。この肉と心の尽きたあと浄土で生きると信じるということは、この肉と心をこえた自己を実感すること。往生の決定の実感は、この肉と心以外の、より大きな自己の実感。阿弥陀仏が不殺生を完成しているということは、僕が死ぬのを阿弥陀仏は見殺しにせず生かすということ。永遠の命を与えるということ。宇宙大の自己に気づかせるということ。それに気づかせる阿弥陀仏とは、形なき世界より出でる誘引作用でもある。だから念仏する人は意識せずして苦から遠ざかる。では南無阿弥陀仏ととなえることはなぜ必要か。なぜ阿弥陀仏の物語は称名とセットなのか。それは実践論になる。いっとき宇宙大の自己を感じても、それはすぐ終わる。それを継続するための何かが必要。ちゃんと永遠の自己を感じ続けられ、誰でも、一秒も逃さず実践できるのが称名である。
以上の理屈が正しいという根拠はどこにもない。きっとまちがっているだろう。この肉と心が作った理屈だ。それより念仏する方がよい。