「近代日本の仏教家と戦争―共生の倫理との矛盾」栄沢幸二

 椎尾弁匡(1876-1971)は大正・昭和期の浄土宗の僧であり仏教学者。
 一切のものは「縁」によってできあがってゆくのであり、共生している。たとえば、この私は、先祖・両親・社会・国家などのお陰の力によって現れてきたものである。それどころか自分は、親や家の力によって「生きられている」のである。浄土教の表現でいうならば、私がほんとうに生きるということは、私を生かしてくださる永劫の力、阿弥陀様の命によって生かされるということだ。
 森羅万象は、縁起によって共生し、相応じ、発達し、極楽に達する。そのように導くのが阿弥陀様の力である。
 私たちはその中にある。お陰を知り、拝み、その恩に報いることで、私たち人間の世界も極楽浄土に向かっていく。恩に報いるとは、社会の一員として、それぞれの業務に奉仕することである。自分が受けたお陰の力以上に、自分の身心の能力をすべて業務にうちこむことである。社会生活は菩薩の利他行である。
 
 そう説いた椎尾は、現世の極楽化のため政界に身を投じた。彼の理想の具体的な姿は、天皇に忠実に服し、自己の業務をとおして誠をささげる社会であった。しかし現状はその姿からは遠く、彼は理想の実現のために粉骨砕身した。理想を実現するためには、あらゆる手段が正当化される。椎尾によると第一次大戦は、理想の方向へと少しでも近づくための「尊い戦争」であった。また太平洋戦争における「東亜新秩序の建設」に賛同し、緒戦の勝利を謳歌した。彼は、共生社会への道のりは半ば達成されたとして、議員を辞職する。
 
 敗戦にあたっての彼の態度はこうであった。軍部に芽生えていた誤った態度が直接の敗因であった。それを防止し正すことが自分の天皇への責務・奉公であったが、それが不十分だったことは悔やみきれないと。そして1956年には、当時の軍部は勲章に目がくらんでめちゃくちゃであった、共生と反対の共殺しの戦争であったと述べている。
近代日本の仏教家と戦争―共生の倫理との矛盾