医療は煩悩か(続)

前の記事(「医療は煩悩か」)で問題提起をしたので、今度はそれに答えるべく考えてみたい。
臓器移植や再生医療に関わる生命倫理の問題は、宗教の立場からも様々に扱われているが、行き過ぎた科学や医学に対する反対の立場であることが多い気がしている。科学の行き過ぎに歯止めをかけるのは難しいことなので、不利な立場である反対派の方に宗教が回るのはもっともなことである。しかし、初めから反対派の立場に立ってしまうのは、ここでは避けたい。
僕は、難しいことの善悪の判断は、基本的に不可能であるという前提に立ちたい。生命倫理のような問題の場合、ケースバイケースで何を是とするべきかが変わることも有り得るので、何をするのが正しいと一般化した形で言えない可能性もある。また、善悪がはっきりして取るべき行為が明らかな場合でさえも、善を取るべきであるが、必ずしも善の方を取れないというのが、専修念仏者の立場である。この立場では、臓器を人様からもらって生き延びるのが正しいのか、潔く死を選ぶのが正しいのかは、判断できない、もしくは判断してもそのとおりに実行できないというのだから、生命倫理の重要性は二の次になってしまう。
念仏者は、念仏をしているからといって、臓器をありがたくいただけるようになる訳でもなく、念仏をしているからといって、臓器をいただかずに潔く死ねる訳でもない。臓器をいただいて生き延びることが正しいと決めた場合でも、人から臓器をもらうのは遠慮して潔く死を待つのが正しいと決めた場合でも、それが本当に正しいか間違っているかはともかく、それぞれのありのままの姿でお念仏をする。たとえ倫理的に誤っていても、それで一切肯定される。生命倫理という観点で一般化した答えを必要とすることなく、倫理の問題が解決する。だから念仏者の立場からは、生命倫理の議論はあまり必要ない。
自分の問題に返ってみると、「生物医学研究が、際限ない死からの逃避/生の欲求という煩悩への迎合かもしれない」という不安がある一方で、「この研究で少しだけ死を遅らせて、少しでも多くの人が死への準備をする猶予を与えられ、できればその間にお念仏の教えに出会えるならば、この研究はまぎれもない善である」との希望も持っている。これが覚った者から見て正しいのか間違っているのかは、自分には不可知である。しかし自分の中での善悪の軸がこのように定まっている以上、できるだけこれに沿うように行動するのが自分にとっての倫理である。そしてそれ以上に、そのとおりに行動できるかできないかはともかく、そのままの姿で自分はお念仏する。
いかがであろうか。