医療は煩悩か

医学にも通じる生命科学を研究している一人として、医療を行うことが単なる煩悩の発露であるとすれば、ひじょうに悩ましいことだ。
たとえば他人の臓器を移植して初めて、自分あるいは大切な人の生命が助かるというとき、もし、その臓器提供者の生命を軽んじて、自分のための臓器を欲してやまないとするならば、その態度は煩悩の発露といえるであろう。移植医療はこのような矛盾がわかりやすく現れる例であるが、ことは移植医療に限らない。何かを犠牲にして老・病・死の苦しみを避けようとするのが医療行為である。僕が日常行っている実験研究でも、膨大な実験動物を犠牲にしている。医療は、多くの人の手を煩わすし、機械を動かすのにも薬をつくるのにも大きな金がかかる。それらは多分に他人の労働の犠牲と献身の上に成り立っている。医療を提供する行為は慈悲ととらえられなくもないが、今は医療行為の受け手の側に立って考えてみたい。医療を提供する側である自分も、自分の行為が煩悩への単なる迎合であるとすれば、自分の行為を慈悲行であると単純に考えられないからだ。
仏教では、自己の身体に執着して病気をなおそうとする行為は、望ましくない行為とみなされてきた。たとえば法然上人が病床にて薬による治療を行ったことにも、これは自己身体への執着ではなく、心安らかに念仏するための治療であったと、わざわざ記されている。
一方、私が感銘を受けたある病理学教授の講演に、次のような話があった。人は必ず死に至る。それにもかかわらず、死に至る病をなおすということは、どういう意味があるか。それは、ゆっくりと死を受け入れるための時間を、その人に提供することである。そのために医学研究はなされるべきであると。
死を敵視してやみくもにそれを遠ざけようというのではなく、突然訪れる死への準備ができるように、死を少しだけ遠ざけるのが医療の眼目であるというこの言葉には、いつも遺体と向き合っている、病理学者らしい含蓄があった。
仏教には戒律を初めとして数多くの規範がある。その中には医療行為を煩悩からの行為と見なすようなものも多くあるだろう。それは覚った者の言葉だ。しかし覚った者の言葉を、自己の目の前の現実にいかに適用するかは、自分の能力にかかっている。その適用の仕方が正しいかどうかは、覚っていない自分には判断できない。その善悪の判断の不可能性が、仏教における大きな課題であろう。
いま自分は念仏者として、この問題にいかに対処すべきだろうか。
これは、生命倫理という形をまとってはいるが、念仏者がいかに生きるべきかという、より大きな問題の、一具体例である。