科学の信と宗教の信

発掘!あるある大事典II」の納豆ダイエットの番組内容に捏造が発覚した事件に関連して、視聴者の側にも情報の取捨選択をするアタマが求められている。僕も科学者として、バラエティ番組があつかう科学情報にマユツバが多い(実験の反復数が少なかったり、結果の解釈が恣意的だったり)のは、前から感じていた。それでも多くの人は信じてしまう。アヤシイ宗教を信じてしまうのと同じ理由だ。

人が科学を信じる理由はふたつ。学校の理科に二種類あるのにさかのぼる。教科書と実験である。教科書は、ただ書いてあることを覚える。実験は、その記述が正しいかどうかを自分の手で確認する。
どうして教科書の中身を信じるのか? それは「教科書は正しい」というドグマ、権威のためである。どうして実験の結果を信じるのか? それは、血の通った生の体験だからである。科学の真実性は、教科書という権威から来るのではない。実験によって必ず確かめられることにあるのだ。
科学者だって、すべての知識を実験で確かめているわけではない。初めはだれでも教科書で勉強するのだ。それでも自分の実験が教科書と合わないとなったら、教科書の方を疑っていくのである。
数学も同じ。ある定理が正しいと信じる理由は、それが偉大な数学者の見つけた定理だからではない。自分の論理でいつでも証明できるから、正しいのである。
「テレビ番組は正しい」という権威にもとづいて、人はバラエティ番組の情報を信じている。今、その権威と信頼性がゆらいでいる。実体験にもとづかない信は、もろいのだ。

これは科学だけの特別なことではない。人間は、初めは人のことばを通してものを学ぶ。そして実体験によってそれを確認する。
宗教も同じだと思う。カリスマ的な教祖のことばを、初めは信じればよい。教科書を学ぶのと同じである。しかし、それで終わってはいけない。自分の体験としてそれを確認できなかったら、最終的には信じられないはずだ。
法然上人という人間が、南無阿弥陀仏ととなえて往生すると説いた。それを信じることから僕もはじめた。でもすでにいくらかは、それを実体験で確認したといえる。念仏の実験は、まだ続いている。