『「さとり」と「廻向」 大乗仏教の成立』梶山雄一

小泉八雲の「かけひき」という小説の一場面。失敗を犯したある下男が、主人に手打ちにされる。
下男「殺さないでください。もし殺したら、この恨みはきっと返してやります」
主人「ならば、恨みを見せてみよ。首をはねたあと、目の前の石に噛みついてみよ」
下男「噛みつきますとも、噛みつき…」
その言葉の途中で、首ははねられた。転がり、はね上がって、石に噛みついてから、落ちる。見ていた家来たちは恐れおののいた。
主人「心配ない。確かにやつの恨みは凄まじかった。だが俺の言ったとおり、最後は石に噛みつくことに夢中になった。恨みのことは、すっかり忘れて…」
――下男の燃えさかる恨みは、主人に向かっていくはずであった。それが巧みな一言で、石に噛みつくという無意味な執念へと転換する。
そういう転換は、実は世の中にたくさんある。上の例で転換させられたのは「恨み」という悪意であった。ここでは善意の転換を問題にしたい。
あらゆる人を苦から救済したい。そう願った法蔵菩薩は、想像を絶する長期の修行を積み、極楽を建設して、阿弥陀仏となった。地獄に落ちるほかない極悪人も、極楽に往生したいと願って、南無阿弥陀仏と口に出せば、そのとおり往生する。消しがたい地獄行きの悪業は消え、阿弥陀仏の積んだ功徳が、我が身に転換され、贈られるのだ。
そんなことが可能なのは、実はすべてが空だからだという。生前になした善悪の業によって、来世での生が決定される、それを繰り返すのだという「輪廻転生」の観念。それを真っ向から否定はしないが、実はそのようなものはすべて空だと説く、大乗仏教や空の哲学。それらはちょうど阿弥陀仏信仰と同時代に生まれている。
インド文化の中では、輪廻というがんじがらめの束縛を意識できるかもしれない。だが、現代日本文化の中で輪廻を意識する人は少ないであろう。私がそう感じないからといって、救済が不要なのではない。迷いながら生きているのだ。自分の何気ない日常において何が「輪廻」なのか。それをよく掘り起こすことが大事である。
「さとり」と「廻向」―大乗仏教の成立