念仏の現世利益

念仏の実験は、お念仏によって自分がどう変わるかの実体験。迷いばかりで確信なく、人やまわりを苦しめてばかりの自分が、お念仏してもそのまま変わらないのか、お念仏に利益あって少しでも変わることができるのか。
いかにしても克服しがたいこの自己の愚かしさ、煩悩の深さに、これはいかんともしがたいと自己変革を放棄。自らよくないと思うことをし、自分はこのような愚か者なのだと悔しがりつつ、それでも大慈悲を我が身に垂れたまう仏を仰いで、南無阿弥陀仏と生きる。
その生き方の果てに、自ら放棄した自己変革が、仏の手によってもたらされるのだろうか。
安易にYesとは言えない。
Yesと思って、未来の我が自己変革を仏に託すならば、今の自分は、自己の愚かしさへの責任を手放す。よくないと思いつつ手を染める今の仕事が、未来の自己変革への道筋として正当化される。すべての我があやまちは、必要悪と言い張っている自分。そこに、自己の罪深さに涙した当初の念仏はない。阿弥陀様の名を使って悪事にふける自分に気づいたとき、また初心に帰ってくる。
そこで、楽観的にYesと答えられなくなる。
Noということは、いくらお念仏をしても、自分は変えられないし、この世が浄土になるのでもないということ。凡夫がこの世で仏になる夢に浮かれるより、そのくらい厳しい現実を突きつけられた方がよい。しかしこの現実の苦しみが変わらないならば、信仰に何の意味があるのだろうか。