護念による浄化作用

お念仏の浄化作用によって、僕は仏菩薩や聖人君子のようになれるのだろうか?
心の浄化というのは現世での利益である。手はじめに選択集を見ると、現世利益については、観音・勢至の護念に触れられており(第十一章)、上の問いについての手がかりとできる。護念については、善導大師の明五種増上縁義に詳しく説明されており、法然上人も主にこれを引用して、次のように護念を説かれている。
○選択集(第十一章)で、観経をもとに、念仏者のあずかる現世利益として観音勢至の護念をあげている。しかし護念が念仏者の心を浄化するかどうかは、明らかではない。
○要義問答で、「一切の善根は魔王のために妨げらる。これはいかがして対治そうろうべき」との問いに、「念仏の行者は身をば罪悪生死の凡夫と思えば、自力を憑むことなくして、ただ弥陀の願力に乗りて往生せんと願うに、魔縁便りを得る事なし」と答え、その理由として「仏を誑(たぶろ)かす魔縁なければ念仏の者をば妨ぐべからず」と述べ、「また念仏の行者の前には、弥陀観音常に来たりたまう。二十五の菩薩百重千重に囲遶護念したまうに便りを得べからず」と護念についても並列的に述べている。質問は、念仏往生を邪魔する障害に対する警戒である。お答えの前半は、自力を用いるところには障害のはたらく隙があるが、念仏往生は阿弥陀様の力でいただくので障害されないとの見解である。後半は、仏菩薩の護念によりやはり障害を受けないとのことであり、護念が念仏者を守って無事に往生させるためのものであると受け取れる。
○浄土宗略抄で、阿弥陀仏はじめ諸仏菩薩等の護念を引用によって説かれたあと、私釈を述べておられる中に「…仏の御力は、念仏を信ずる者をば転重軽受といいて、宿業限りありて重く受くべき病を軽く受けさせたまう。いわんや非業を祓いたまわん事ましまさざらんや」とある。これは一見すると、病気を軽く受けたり不運から逃れたりという、お念仏に関係のない招福攘災が護念によってもたらされるようにも読める。しかし保守的に解釈すれば、病気や不運についての不満が積もってお念仏を妨げることのないようにしてくださる、とも読める。これは心の浄化作用である。
○選択集(第十五章)で、阿弥陀経をもとに、六方諸仏が念仏者を護念することを挙げている。護念によって「悪鬼悪神の便りを得せしめず」「永く諸々の悪鬼神・災障厄難、横に悩乱を加うること無く」「延年転寿を得」ることが引用されている。これについて上人の私釈はない。しかし上記の浄土宗略抄とほぼ同じ受けとり方ができるだろう。「延年転寿」については招福攘災のようにも読めるが、ここまで命を延べられたことに満足し、老化や迫りくる死に対する嘆きがお念仏を妨げてしまうことがない、とも解釈できる。これも心の浄化作用といえる。
阿弥陀経釈で、「この諸々の善男子・善女人、みな一切諸仏に共に護念せられて、阿耨菩提において不退転を得」との文について、これは現世利益であって、護念によって大菩提にむかって退転しないと釈されている。これも上記と矛盾なく受けとることができる。
僕の心はいつも乱れている。お念仏を相続しようとしても、子どもや妻のことが気になったり、仕事の面白さに心を奪われたり、嫌な出来事をうじうじと思いだしたり、いつの間にかお念仏を忘れている。凡夫であるから、妄念のおこるのは生まれつきの性質であり、おさえがたい。これで果たしてお念仏を相続して往生を遂げることができるのか。初めは小さな妄念も、次第に大きくふくれて、お念仏を忘れたままになりそうなものである。小さな妄念に火がついて取り返しがつかなくならないような現世利益、それが護念の利益ではないだろうか。けっして僕が仏菩薩や聖人君子になるというのではない。
僕が何とかお念仏を相続していることが、護念による浄化作用の実験結果なのである。