お念仏の利益の感触

何が善であり何が悪なのかは、結局、智慧の眼の開けていない凡夫には、わからない。お念仏だけは、すればよいのはわかる。しかしほかのことの善悪の判断はつかない。正しいと信じてやっていることもどこで間違っているかわからないし、何かを絶対に間違っていると思う、その自分が間違っていることもある。それでも、目の前の一刻一秒では、何かを為し、何かを止めながら生きている。間違いだらけの判断をしながら、間違いだらけで生きている。善を止め悪を為して生きているのだから、これを仏さまの眼で見るならば、自分で自分を苦しめるように生きていると言わざるを得ない。心に妄念を抱き、妄念を信念と勘違いして、その悪い報いを自分に受け、そのことも理解せずに同じことを繰り返し、あがき、もがくしかない。お念仏をしていても、結局、何が善なのか、何が悪なのか、見えないままだ。そんな一刻一刻の選択はすべて誤っているけれども、本願の力はその誤った生き方の人間を守る。念仏を知らずただ妄念のままに生きる人とは何かが違う、そんな人生を与えてくれる。念仏する人の生き方は、刻一刻間違いだらけであることに違いはないけれども、何かが違っている。守られているから、何かが正しい。けれども、何が正しいのかを凡夫の立場から言うことはできない。お念仏の利益って、そんなところにあるような気がする。お念仏によって人生の指針やら具体的な何かが見えてしまったら、その時には自分がどれだけお念仏しているか自問してみることにしたい。