16-1背教の本性

阿弥陀経』では、お念仏についてのお釈迦様の説法が終わると、舎利弗以下の数々の聴衆は、教えを聞き終えて喜び、去っていく。これについて善導大師の『法事讃』では、

世尊(=釈尊)は、説法の時間がまさに終わろうとするにあたって、丁寧に阿弥陀仏の名を付属なさった(=後世に残すために託された)。五濁増の時(=汚れた時代)には、(念仏の教えを)疑いそしる人が多くなり、道俗(=僧侶と一般大衆)もこれを嫌って聞こうとしない。(念仏を)修行する人を見ては、怒りを起し、手立てを尽くして破壊し、競って憎しみを起こす。このように生まれつき分別がなく仏道に因縁のない人々は、頓教(=すばやく悟ることのできる教え)をこわし滅ぼして、(苦しみの中に)永遠に沈み続け、大地微塵劫(=とても長い期間)を過ぎても、ずっと苦しみの世界を離れることができないのだ。人々よ、心を一つにして、(念仏の教えに背くという)破法の罪を犯してきた過去を反省せよ。

というように、(一)お釈迦様がお念仏を後世に残したこと、(二)念仏を信じず誹謗する人が多いこと、(三)自分が念仏の教えに背いてきたことを反省すべきこと、の3点の解釈を施した。

お釈迦様の教えを受け継いだ仏教者たちが、仏教の本質を新しい目で捉え直して浄土経典としてまとめ、世に広めた。そのとき、後世の人を救いたいと願ったお釈迦様の心が、経典製作者たちを通じて、念仏の教えという形に結実したのである。我々の目の前にお念仏の教えがあるのは、その結果を享受しているということである。その意味で『阿弥陀経』を読む我々は、経典中で教えを聞いた舎利弗らの境遇を、自分自身のそれに重ねてみるべきである。これが第一点である。

さて、舎利弗らが教えを聞いて歓喜したという。今の我々の世にも、多くの教えが信仰者や出版物を通して流布しているけれども、それを見聞きして舎利弗らのように喜び信じる人はとても少ないであろう。法然上人の時代にもそれは同じである。『選択集』を読んだ心無き人が、念仏を誹謗し、阿弥陀仏の救いから身を遠ざけてしまうという事態を恐れた法然上人は、「この書物を読み終えたら壁に埋めてしまいなさい」と、『選択集』の中の、上記の引用のすぐ後に書き記しているほどである。これが第二点である。しかし、世の人が念仏を信じないという事実以上にここで大切なのは、自分自身のことであろう。

生きていく上での苦しみの多くは、自分がこの世に誕生してから作った原因以上に、人間としての本性に基づいて生まれている。人間の本性は自分が誕生する前から決まっていたことであり、自分が誕生してから作ったものではないのだから、「仕方がないもの」と責任を放棄することもできよう。しかし責任を放棄しても苦しみは解決しないのだから、これも自己の問題の原因として受け入れるほかない。「真実の教えを受け入れない」という性質も、多くの人間が有する、したがって自分自身も持っている人間としての本性である。言い換えれば、真実の教えを嫌うという性質が、救いから身を遠ざけることにより、苦しみの原因の一つとなってきた。いま、念仏を信じない心が自分にあるとすれば、「信じないのだから仕方がない」と責任を放棄し、その心に身を任せてしまってはいけない。勇んで念仏を信じるべきである。これが第三点である。

歓喜して去って行った舎利弗らにならい、背教の本性を見つめ直し反省して、お釈迦様の後世への意志が結実したこの念仏を信じるべきである。『選択集』中に特段の解説はないのだが、この箇所はそう言っているのではないかと思える。