「功徳はなぜ廻向できるの?」藤本晃(国書刊行会)

某掲示板の紹介を読んで、購入しました。
何か善いことをしたら、その人の心の中には良いものが生まれます。それが功徳です。心の中のものですから、Aさんの功徳をBさんに贈ることはできません。そして功徳はその人によい結果をもたらします。逆に悪いことをしたら、その人の心には悪徳が生まれ、その人はそれによって悪い結果を受け、苦しみます。誰かから功徳をもらって苦しみから逃げることはできません。これを自業自得といいます。
ところが一般の仏事や先祖供養は、お経を読んだりして作った功徳を、亡き人や先祖に贈るものです。功徳を別の人や物事に振り向けることを「回向(えこう)」と呼びますが、自業自得のはずなのに、功徳はなぜ回向できるのでしょうか。
従来の見解は、自業自得ということもとらわれた考えであり、実体のないものであるから、実際は功徳の回向ができるというものです(id:livesutra:20060909)。
ところが本書では別の説をたてます。Aさんが功徳をBさんに回向したいと思うとき、思われたBさんがそれを知って、その広い心に感動し、よろこぶ(随喜)。心が共鳴するのです。これはひじょうに美しいことです。だからBさんも善行をしたのと同じことで、その心に功徳が生まれるというのです。自業自得の範囲内で、回向も説明できるというのです。
功徳はなぜ廻向できるの?―先祖供養・施餓鬼・お盆・彼岸の真意
阿弥陀様の功徳回向にもこれはあてはまるでしょうか。
「弥陀如来は因位の時、専ら我が名号を念ぜん者を迎えんと誓いたまいて、兆載永劫の修行を衆生に廻向したまう」(法然上人『三部経釈』)
阿弥陀様がその昔、想像を絶する修行を積んで、その功徳をわたしたち衆生に回向してくれた。だからわたしたちは、ただお念仏するだけで浄土へ往生させていただくことができるのです。従来の見解は、回向されたものをそのまま受け取ると考えます。
本書の考え方だと、阿弥陀様の功徳をわたしたちがそのままいただくのではなく、それに心が共鳴するという善行(=信心?)をわたしたちが行うので、そのわたしたち自身の功徳によってお浄土へ生まれることになります。でも、ちょっと抵抗のある考えですよね。お浄土へ生まれるほどの大きな功徳を、わたしたちが自分で作るというのは。
そもそも、人の善行に心が共鳴しただけで自分の功徳になるという「随喜」の考えが、自業自得の原則を破っているのではないでしょうか?