2008-01-01から1年間の記事一覧

8-7回向発願心:生活の統一(1)

三心の三番目は「回向発願心(えこうほつがんじん)」。行為をある目的に向けて(=回向)、その目的を達成しようと願う(発願)心である。どのような行為を、どういう目的に向けて、その達成を願うというのだろうか。これに二種類ある。往相(おうそう)の…

8-6深心:阿弥陀仏の本願の確信(2)

「信機・信法」では、阿弥陀仏の救いが客観的に存在することは受け入れると前提し、「自己の至らなさが原因で、救いが自分に届かない」と疑う心への対処を問題とした。その糸口は、善導大師という、すでに救いを確信した先達に基本的信頼を抱くことにあった…

8-5深心:阿弥陀仏の本願の確信(1)

三心の二番目は「深心(じんしん=深い心)」。深く何をする心かというと、深く信じる心である。何を深く信じる心かというと、阿弥陀仏が自分を救ってくださることを深く信じる心である。 阿弥陀仏が救いを与えてくださることは、いくら自分ひとりで考えても…

8-4至誠心:動機の存在(2)

内心と外面の一致を「動機の存在」と言い換えた。「動機」とは、外面的な行動の原因となる内的な契機のことであるからだ。 内心と外面の一致の実例について善導大師は、みずから内心・外面の一致した真実の心を持つことと、他の人に内心と外面の一致した真実…

8-3至誠心:動機の存在(1)

善導大師は、三心のひとつめの至誠心(しじょうしん)を「真実心」と言い換え、仏道を理解・実践するには必ず真実心の中に行わなければならないということだとしている。すなわち、外面に賢・善・精進(=賢く、善良で、努力精進する姿)を見せて、内心に虚…

8-2三心(さんじん)

苦の解決を与える外部からの力(=阿弥陀仏の本願)は、それが実在するかどうかを客観的に証明することができない。存在するかどうかわからないものに、一体どうすれば自分の最大の問題を預けられようか。それには、同じように道を歩んだ先人の心情を知り、…

8-1阿弥陀仏を自ら見つけるには

苦しみを感じ、苦しみの原因を自己の外でなく、自己の内に求める。しかしながらその原因は自己存在とあまりに密接なところにあり、したがって自分が生きて存在しているかぎり苦しみから逃げおおせることはほぼ不可能である。このとき浄土門の教えが示すのは…

医療は煩悩か(続)

前の記事(「医療は煩悩か」)で問題提起をしたので、今度はそれに答えるべく考えてみたい。 臓器移植や再生医療に関わる生命倫理の問題は、宗教の立場からも様々に扱われているが、行き過ぎた科学や医学に対する反対の立場であることが多い気がしている。科…

医療は煩悩か

医学にも通じる生命科学を研究している一人として、医療を行うことが単なる煩悩の発露であるとすれば、ひじょうに悩ましいことだ。 たとえば他人の臓器を移植して初めて、自分あるいは大切な人の生命が助かるというとき、もし、その臓器提供者の生命を軽んじ…

7生きている念仏者への恵み (光明の意味)

ただ「南無阿弥陀仏」と称名することだけによって、仏のご用意くださった浄土に生まれ変わることができる。それはこの肉体の死後のことである。一方、それによって生きている自分に与えられる心の平和も大きい。では、このように生きている間に念仏者に与え…

6時代の制約を破る念仏

過去と現在、未来を比べるとき、未来の方がより進歩・発展しておりすばらしいという、進歩史観的な見方が一般的だ。しかし仏教には、時代が下るほどに人々は堕落し、仏の教えの効力も薄れるという退歩史観的な考え方がある。どちらの見方を受け入れたものだ…

5一日三万回以上の称名

上位から下位までの三つの階位の人について、念仏とその他の行為を例示しつつ述べたあと、『無量寿経』には 仏(=お釈迦様)は弥勒に語られた。「彼の仏(=阿弥陀仏)の名号を聞き得て、歓喜踊躍して(=踊りだしそうなほどに喜んで)一念でもすれば、この…

4-2称名以外の行為の「無意味」と「意味」

称名念仏という行為を、阿弥陀仏は、浄土に生まれ変わるための行為として規定した(=本願)。しかし経典には称名以外の行為も書かれている。これについて法然上人は三つの解釈を示している。この解釈は、称名念仏だけに価値があることを法然上人が主張する…

4-1称名以外の行為についての心得

苦しみを感じ、そこから抜け出したい。それなのにこの世界の中にあって、一切の苦しみを抜け出すのは不可能だと思われる。ここで、すでにそれを達成した方の側からの働きかけがある。「たった一声の南無阿弥陀仏を実践した者さえ、その死後には必ず我が浄土…

3-7一生涯の念仏から、ただ一度の念仏まで

『無量寿経』の本願の文には、「乃至十念(=十回の念仏まで)」する者を浄土に生まれ変わらせるとある。それを善導大師は、「下至十声(=下は十声の念仏に至るまで)」浄土に生まれ変わらせると解釈された。念と声の違いについてはすでに述べた。「乃至(…

3-6念仏とは称名である

死後に浄土に生まれ変わるために私たちがすべき行為として、内容的に勝れ、また万人に開かれた称名(=南無阿弥陀仏ととなえること)を、阿弥陀仏が選んだと述べてきた。しかし前にも見たように、『無量寿経』の本願の文には「称名」という文字はなく、ただ…

3-5お念仏が容易で万人に開かれているということ

阿弥陀仏が浄土往生のための行為として称名念仏を選択した理由について、ひとつはお念仏が内容的に勝れているということ(勝劣の義)を挙げた。もうひとつはお念仏が誰にでもできる容易な行為であるということ(難易の義)である。 次に難易の義とは、念仏は…

3-4お念仏が内容的に勝れているということ

往生をめざす人が「南無阿弥陀仏」と称名するのは、阿弥陀仏が称名を往生のための行として規定しているからである。その理由で十分なはずではあるが、法然上人はあえてさらに上位の理由、阿弥陀仏がなぜ他の行為ではなく称名を選んだのかを考察している。そ…

3-3阿弥陀仏の本願

阿弥陀仏は、言葉でも想像でも表せないような深遠なる真理を悟っておられるが、真理そのものだけを指して阿弥陀仏とお呼びするのではない。阿弥陀仏は、救いを求める人の前に姿を現して導くが、そんな形でとらえられるものだけを指して阿弥陀仏とお呼びする…

3-2阿弥陀仏と法蔵の話

遠い過去、ある国王が仏の説法聞いて出家し、法蔵と名乗った。法蔵は四十八の誓願を立て、兆載永劫の時をかけてこれを実現し、いまより十劫前に阿弥陀仏となった。遠い過去とは人類発祥以前なのか? 地球あるいは宇宙の創生以前なのか? 国王とはある一人の…

3-1阿弥陀仏

浄土に生まれ変わるためになすべき本質的行為は、浄土をご用意くださった仏の名をとなえること(称名=しょうみょう)であると前述されたが、いまその根拠が示される。 『無量寿経』上巻に、「もし我れ(=阿弥陀仏)が仏位を得たのちに、十方世界の衆生が、…

2-3目的外の行為

浄土に往生するという目的のためにすべき行為の本質は、浄土をご用意くださった仏の名をとなえること(=念仏)であり、またそれについて経典などで知ることや、雰囲気を調えることも、自分を念仏に導くための行為として役に立つ。これらの行為(正行=しょ…

2-2 浄土往生のための行為

この世で仏になることは、とても成し遂げられぬ大きな仕事である。そこで仏の用意した浄土に往生することをまず目指そう。ならば何をなすべきか。一応すべての行為に浄土とのつながりを求められるけれども、後述されるように、浄土を用意くださった仏の名を…

2-1 何を行うべきか

浄土門という目的を定めた。つまりこの世で仏になるのではなく、仏がご用意くださった浄土にまず生まれ変わって、そこで仏になるのをめざすことに決めた。しかし、そのためにはどうすれば良いのだろうか? 何かを行わなければ、浄土に生まれ変わるという目的…

1-4 浄土門に入る

浄土門では、今生きているこの世界で仏となることを放棄し、死後、仏の用意した世界(浄土)に生まれ変わって、その世界で仏になることを目的として設定する。ここで「浄土の存在」「死後の生まれ変わり(往生)」を信じられるかどうかが問題となる。現代の…

1-3 聖道門を捨てる

この聖道門の大意は、大乗仏教であっても小乗仏教であっても、この娑婆世界の中で、四乗の道を修して、四乗の果を得ることだ。四乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗(すなわちあらゆる仏教)である。 選択集では、道綽禅師『安楽集』の説を採用し仏教を大…

1-2 宗教の選択

自分が、ほかの宗教ではなく、お念仏の道を選んで歩んでいるきっかけは、お念仏のお寺の子に生まれたからである。ほかの宗教を選ぼうと本気で考えたことはない。ただ、元は無宗教であったため、宗教というものを自分の人生に取り入れるかどうか、どう取り入…

1-1 お念仏の動機

お念仏をするのは、そもそも何のためだろうか。 一切衆生にはみな仏になれる可能性(仏性)があるという。(また一切衆生は)限りない昔から輪廻転生を繰り返すうちに数多くの仏に会った(そして教えを受け自らも仏になる機会があった)はずだ。なのにどうし…

お念仏の利益の感触

何が善であり何が悪なのかは、結局、智慧の眼の開けていない凡夫には、わからない。お念仏だけは、すればよいのはわかる。しかしほかのことの善悪の判断はつかない。正しいと信じてやっていることもどこで間違っているかわからないし、何かを絶対に間違って…

謹賀新年

今年もよろしくお願いします。ブログももっと頻繁にアップできるよう、がんばります。