滅罪は心の浄化?

善導大師の明五種増上縁義には、お念仏の現世利益として「護念」のほかに、「滅罪」「見仏」が示されている。「滅罪」にも、心の浄化作用についてのヒントがないだろうか?
三部経の中で滅罪が説かれるのは、主に観無量寿経である。心を静めて浄土の光景や菩薩の姿を観想するのに成功すると「無量億劫の生死の罪」が除かれるという。また、悪いことばかりしてきた悪人が、臨終にはじめて念仏すると、「八十億劫の生死の罪」が除かれて往生するという。このような滅罪は、お念仏する僕の心に今も起こっているのだろうか?
観経に説かれる滅罪の意味は、「これまで八十億劫という長いあいだ生死輪廻の中で犯してきた罪」が消えるのではなく、「これより先、八十億劫という長いあいだ生死輪廻して報いを受けるべき罪」が消えるのである。「正如房へ遣わす御文」にも「八十億劫が間生死に廻るべき罪を滅して」という表現がある。凡夫はとても重い罪を負っており、そのためにこれより先、とてつもなく長いあいだ生死輪廻して苦しみを受けなければならない。ところがお念仏すると、それをまぬがれて往生できる。往生の、輪廻をまぬがれるという面を指して、「罪を滅する」というのだろう。
同じことは、「十二箇条問答」において、どのようにして積もった罪を滅すべきかと問われた法然上人が、仏の御力で往生せよとだけ答えていることでも分かる。往生を裏返して言ったものが滅罪だから、そのようになるのだ。
「念仏往生義」には、「罪障を滅せんがために念仏をば勤むれ」とのことばがあるが、念仏は往生を願ってするものであり、それ以外のものを求めて念仏せよと上人が教えられるとは思えない。しかし往生の一側面を滅罪というのであれば、罪障を滅せんがために念仏するとは、往生を願って念仏するのと等しいことになる。
また「東大寺十問答」には、一念十念(たった一回や十回の念仏)で往生すると経に説かれてあるのは平生についてのことか臨終のことか、という質問がある。上人はこれに答えて、平生には一念十念しようとも罪は滅しておらず、したがってこれは臨終にはじめてお念仏する人について言ったものだと教える。平生には滅罪はないと明言されている。
滅罪は、お念仏する僕の心に今も起こっているのだろうか? 以上の証拠からすると、滅罪とは「多劫の輪廻をまぬがれるという、往生の一側面」に注目したものにほかならず、臨終を待たずして滅罪にあずかることはない、と考えられる。
この結論と一見矛盾するような御法語が「十二箇条問答」にひとつある。名利心(名声や利潤を求める心)にまみれた心で申すお念仏への疑問に対し、濁水を浄化するという摩尼珠に念仏をたとえて、「念仏の摩尼珠を投ぐれば心の水自ずから浄くなりて往生を得る事は念仏の力なり。我が心を鎮めこの障りを除きて後念仏せよとにはあらず。ただ常に念仏してその罪をば滅すべし」と答えている。念仏を摩尼珠にたとえた心の浄化は、曇鸞大師「往生論註」が元になっている。ここでいう濁心とは、浄土への往生がこの世の生とはちがった「無生の生」であることを悟らない心である。たとえそうであっても、念仏すれば無生の浄土に往生できる、名号にそなわる力で罪が滅して心が浄まるためであると説かれている。ここで「罪が滅して」というのは、上記の結論どおり臨終のことであると解釈できる。法然上人の御法語もこれを踏まえたものにちがいないから、そのこころは、名利心が湧くようであっても、臨終には滅罪されて心静かに往生を得る、ということではないだろうか。
以上からすると、観経の「滅罪」は、念仏による心の浄化作用のヒントにはなりそうにない。