16-3我々が念仏を選ぶにいたる過程

生という苦しみから脱出する方法として、念仏は、あらかじめ選び抜かれた必然の結論なのであった(「念仏の必然性」)。しかし、苦からの脱出を求める多くの人にとって、それは初めから自明ではない。まず、生に苦しみを感じて、そこから脱出したいと願い(「お念仏の動機」)、数ある宗教の中から、いくつもの偶然を経て、仏教を選ぶ(「宗教の選択」)。その仏教の中にも、念仏以外の数多くの教えがある。

次にあらゆる仏教を、この世界で生きながら苦からの脱出を目指す仏教(=聖道門)と、まずこの世界を離れて苦からの脱出を目指す仏教(=浄土門)に二分する。この二分を行った時点で、実は浄土門の方を選ぶ準備がすでにできあがっている。(「聖道門を捨てる」「浄土門に入る」

この世界を離れて浄土に生まれるためには、何を行うべきか。あらゆる仏教的行為が、浄土に生まれるための方法になりうるのだが、浄土往生という目的との整合性からいえば、浄土を用意なさった阿弥陀仏に関係する行為を正行とし、それ以外の種々雑多な行為から選り分ける。

さらに、阿弥陀仏に関係する行為もたくさんあるが、阿弥陀仏の本願に依拠した行為である称名念仏を、他の行為から分けて、本質的な行為とする。

・この生き死に(の苦しみの世界)をすみやかに離れたいと欲するならば、(聖道門および浄土門という)二種類の勝れた仏法の中からは、しばらく聖道門をさしおいて、選んで浄土門に入れ。
浄土門に入りたいと欲するならば、正行および雑行という二種類の行為の中からは、しばらく諸々の雑行を投げうって、選んで正行に身をまかせよ。
・正行を修めようと欲するならば、正定業および助業という二種類の行為の中からは、やはり助業を脇に置いて、選んで正定業ひとつを修めよ。正定業とは、阿弥陀仏の名を称することである。阿弥陀仏の名を称すれば、必ず往生できる。阿弥陀仏の本願に依拠しているからである。

こうして、苦からの脱出を求める人が念仏に行き着くのである。