16-2念仏の必然性

この『選択集』は、阿弥陀仏、釈迦仏、諸仏が念仏だけを選択していることを顕そうという書物である。

まず阿弥陀仏の選択。生きることは矛盾に満ちており、人生に悩みは尽きない。そこに、一個の人間の生を超えた立場から、より大きな世界を与えてくれるのが阿弥陀仏だ。その大きな世界に入るための実践として本願に誓われた念仏がある。「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依します)とその名前を声に出すという実践は、自分はその大きな世界に行きたいと阿弥陀仏に対して表明する行為である。この生き方がもたらす心の平安は阿弥陀仏光明の働き、そして人生の終焉は阿弥陀仏来迎である。

釈迦仏の選択。阿弥陀仏が存在することは、自分ひとりで発見したのではなかった。先にそれを発見して後世に伝えた先達が数多くいた、そのおかげなのである。いま我々の目の前の阿弥陀仏の教えは、釈尊の開いた仏教の流れに属する。この流れの中で、仏教の極致としての念仏の評価、さらに、どんなに乱れた時代にも通用する永遠性によって、後の世、我々の今の時代にまで伝えられたのだ。

そして諸仏の選択。念仏は、ただ我々だけの寄る辺なのではない。同じ悩みを持つすべての存在に対しての普遍性があるということ。

釈迦、弥陀および十方の各恒沙等の(=あらゆる他世界の数え切れないほど多くの)諸仏が、同心に、念仏という一つの行為を(往生のための行為として)選択なさっている。余行はそうではない。それゆえ、三経(=『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)ともに、念仏だけを選んで、この道の結論としていることがわかる。

阿弥陀仏の選択によって、この念仏という原理が初めて存在することになった。釈迦仏の選択によって、自分の目の前に念仏が初めて紹介された。諸仏の選択によって、念仏の普遍性が初めて明らかになった。阿弥陀仏、釈迦仏、諸仏の意思は一致している。そのひとつの意思が念仏だけを選んでいる。念仏は必然なのである。