自分は向上するか

この人生に、実際、お念仏はどう利いてくるのだろうか。そんな若い念仏者のつぶやきに、椎尾弁匡師の教えは、とてもエネルギッシュに答えてくれそうだった。しかし戦前・戦中の師の軌跡を見ると、それは自分に注意をうながしているようにも感じられた。確かに師の教えからは、とても活動的な人生が生まれてくるだろう。しかし注意が必要だ。ずっとそう感じていた。
お念仏がこの自分を良い方に導くとすれば、今日の自分は昨日よりも向上し、明日の自分は今日よりさらに向上しているだろう。この自分が向上するばかりでない。この自分やほかの念仏者の活動をとおして、この社会、この世界が良くなっていくだろう。自分は仏の境地に限りなく近づき、この世界はそのうち浄土になるだろう。
ここでよく、もとの教えを考えてみたい。肉体が死んではじめて、浄土にいくことができるのではなかったのか。善導大師・法然上人の文には、生きたままの往生など一言も書かれなかった。
生きたまま仏になり、生きたまま浄土の人となることができるはずだ――そんなことを安易に思ってしまうといけないから、浄土往生は死後までとっておかれているのではないのだろうか。
死んだ後の安楽ばかりをねがう宗教には賛同しがたい。だれしも思うところである。しかし、あえてそれを死後までとっておくだけの理由があるのではなかろうか。