4-1称名以外の行為についての心得

苦しみを感じ、そこから抜け出したい。それなのにこの世界の中にあって、一切の苦しみを抜け出すのは不可能だと思われる。ここで、すでにそれを達成した方の側からの働きかけがある。「たった一声の南無阿弥陀仏を実践した者さえ、その死後には必ず我が浄土に生まれ変わらせる」という、阿弥陀仏の本願がそれだ。だから、阿弥陀仏の意志どおりに南無阿弥陀仏と声にとなえながら生きること(=称名)こそ、浄土に生まれ変わるための行為である。
これで十分なようであるが、称名以外の行為についてはどのように心得ておけばよいのか。私たちは称名以外の行為も多く行う存在だ。
実際、『無量寿経』には称名以外の行為も説かれている。

心から阿弥陀仏の国に生まれ変わりたいと願う人に、三種類ある。その上位の人は、家族と我欲を棄て、僧となって、悟りを求める心をおこし、ただ阿弥陀仏を念じるばかり、あるいは様々な功徳となる行為を実践して、阿弥陀仏の国に生まれ変わりたいと願う。この人が命終わる時、阿弥陀仏は多くの従者とともにその人の前に現れる。その人はすぐに阿弥陀仏についてその国に往生し、たちまち七宝で飾られた蓮華の花の中に生まれて、不退転という悟りの位につく。智慧勇猛、神通自在である…。中位の人は…、僧となって大いに功徳を実践することはできないが、悟りを求める心をおこして、ただ阿弥陀仏を念じる。多少ながら善行を実践し、在家信者の戒律をまもり、寺や仏像をつくり、僧に生活の糧をほどこし、仏前を荘厳し灯明をともし花を散らし焼香し、これらの功徳を浄土に生まれるために役立てたいと、阿弥陀仏の国に生まれ変わることを願う。その人の臨終に、阿弥陀仏はその化身を現す。その光明と容姿はまるで真の阿弥陀仏のようだ。多くの従者とともにその人の前に現れ、すぐに化身についてその国に往生して、不退転につく。その人の功徳と智慧は上位の者に次ぐ。…下位の人は…、様々な功徳を実践することはできないが、悟りを求める心をおこして、ただ十回だけでも阿弥陀仏を念じて、その国に生まれ変わりたいと願う。…この人は臨終に夢に阿弥陀仏を拝見して往生する。その人の功徳と智慧は中位の人に次ぐ。

これらの上位・中位・下位の人々は、いずれにも念仏する人が含まれているのだが、それ以外の様々な行為を実践する人も阿弥陀仏の浄土に往生するように説かれている(これはのちに触れる『観無量寿経』でも同様である)。これらの称名以外の行為について、法然上人は「廃立の義」「助正の義」「傍正の義」の三つの心得かたを示している。