2-2 浄土往生のための行為

この世で仏になることは、とても成し遂げられぬ大きな仕事である。そこで仏の用意した浄土に往生することをまず目指そう。ならば何をなすべきか。一応すべての行為に浄土とのつながりを求められるけれども、後述されるように、浄土を用意くださった仏の名をとなえること(称名念仏=しょうみょうねんぶつ、単に称名あるいは念仏ともいう)が本質的な行為である。その仏に関連するその他の行為は、称名の「助業(じょごう=たすける行い)」となる。「助」の意味は『観経疏』『選択集』とも、この箇所の文面には明らかではない。
第四章が手がかりになる。念仏を助ける他の行為として、たとえば発心し出家すること、寺院や仏像を作り献灯・焼香することが挙げられ、次のような理由が述べられる。すなわち、発心・出家がなぜ念仏を助けるかといえば、念仏しようと発心し、念仏するために家を出るからである。寺院や仏像を作り献灯・焼香するのがなぜ念仏を助けるかといえば、念仏するための雰囲気を作るからである。この例から考えると、浄土やその仏についての経典を読むことで、浄土に生まれ変わることを願う心が生まれ、念仏するようになる。浄土の様子やその仏の姿を想像し、体を動かして礼拝し、たたえ供物を上げることで、お念仏する雰囲気が生まれる。「助」とは、この自分を本質であるところの念仏まで導く、というほどの意味である。
浄土やそれをご用意くださった仏について書かれた『観無量寿経』『阿弥陀経』『無量寿経』を読み、浄土を願い念仏する心をおこす。念仏したい雰囲気になるように、浄土や仏の様子を想像し、手を合わせ頭を下げ、それをたたえる言葉を語り歌を歌い、自ら苦労して得たものを仏前に供養する。これらのことは本質ではない。ただ本質は仏の名をとなえることだけだ。