5一日三万回以上の称名

上位から下位までの三つの階位の人について、念仏とその他の行為を例示しつつ述べたあと、『無量寿経』には

仏(=お釈迦様)は弥勒に語られた。「彼の仏(=阿弥陀仏)の名号を聞き得て、歓喜踊躍して(=踊りだしそうなほどに喜んで)一念でもすれば、この人は大利を得るというのだと知れ。とりもなおさずこれは無上の功徳を具足するということだ。」

とあって、その他の行為に一切触れることなく、念仏の人だけを「大利(=大いなる利益)」「無上の功徳」を得ると讃えているが、これは先に見た「廃立の義」の精神からも当然のことだと、法然上人は指摘する。
そして、念仏についての三つの階位を、次のように説明する。

念仏について三つの階位の人を分別することに、二つの分け方がある。一つは観念の浅深にしたがって分別するもの、もう一つは念仏の多少をもって分別するものだ。
浅深とは、上に引用したとおりで、(『往生要集』に書かれてあるように)「もし(経典に)説かれたとおり行ずれば(=阿弥陀仏の真の姿を観想することができればその人は)、理論的には最上位に当る」というものだ。
次に多少とは、下位の人(を説明した『観無量寿経』)の文の中に、すでに「十念」あるいは「一念」といった(念仏の)数が出ている。上位・中位の人については、これに続いて(念仏の数を)増したものであろう。『観念法門』には、「日ごとに一万回の念仏をし、また時によって浄土の荘厳事を礼讃すべきである。大いに精進すべきである。三万、六万、あるいは十万回(の念仏)をなし得る者は、みな上品上生(=最上位)の人である」という。(一日)三万回以上(の念仏を唱えること)は上品上生の(=最上位の往生を得る)行い、三万回以下(の念仏を唱えること)は上品以下の行いであると知れ。(この文によって)すでに、念仏の数の多少によって階位を分別するということは明らかだ。

法然上人によれば、念仏する人には、並外れた念仏者から最低限ぎりぎりの者まで幅があるのであって、並外れた者とは一日に三万回以上もの念仏を唱える者、最低限の者とは一生にたった一度だけ念仏を唱える者であるという。ここには、多くの念仏を唱えるべきである、という多念主義が見え隠れするものの、それが文面に明らかにはなっていない。
しかし、ここには示されていないが、一生に一回の念仏というのは、死に際に初めて念仏の教えに出逢った極端な場合をいうのであり、それ以前に念仏の教えに出逢った我々は、個人個人の能力や環境の許す限りにおいて、できるだけ多くの念仏を唱えるべきである。人は、もし資質や条件が十分めぐまれていれば、自分の身ばかりでなく身近な人やそれ以外の一切衆生を救おうと志す。その意志は、浄土に往生し仏となった後にこの世に舞い戻って人々を救おう、という形で現れる。そのような救済の実践のためには上位の往生を遂げなければならないのであるが、そのためには一日に三万回以上の念仏を唱えればよい。このような多念主義は、選択集にはあまり示されておらず、その意味で、具体的な数字を示したこの箇所は重要である。