6時代の制約を破る念仏

過去と現在、未来を比べるとき、未来の方がより進歩・発展しておりすばらしいという、進歩史観的な見方が一般的だ。しかし仏教には、時代が下るほどに人々は堕落し、仏の教えの効力も薄れるという退歩史観的な考え方がある。どちらの見方を受け入れたものだろうか。
我々の毎日の営みによって時代が進歩すると信じなければ、未来に夢は持てないだろう。しかしそのような楽観主義が壁に突き当たるとき、進歩史観はたやすく疑いの対象となる。それが宗教の入り口なのだとすれば、多くの宗教が退歩史観を持っているのは当然なのかもしれない。
退歩史観の対象は、宗教そのものにまで向けられる。宗教までが堕落して行く中で、我々はいかに救われうるのだろうか。

無量寿経』の下巻にいう。「将来の世に教えがことごとく滅びたときも、われ(=釈迦)は慈悲と哀愍(=あわれみ)によって、この経(=『無量寿経』)だけを滅びないようにして、百年間とどめておこう。この経に出逢った衆生は、心に願うところのままに、皆、得度す(=悟りを得)るであろう。」

つまり、ほかのあらゆる教えが滅びたあとも、『無量寿経』だけは存続するようにと、お釈迦様が力を働かせているというのだ。法然上人は、『無量寿経』に説かれた阿弥陀仏四十八願の中の第十八願(念仏する者を浄土に生まれ変わらせるとの誓い)を、「本願の中の王」と呼び、『無量寿経』のもっとも大切な点と考えた。だとすれば、お釈迦様がこの経典を存続させるということの真意は、念仏によって阿弥陀仏に救われる道だけは永遠に残さなければならない、そしてこれだけは永遠に残るということだ。
念仏だけをいつまでも残すという、このお釈迦様の力とは、いったい何であろうか。
阿弥陀仏の本願は、最もすぐれた功徳を生み出す行為、また、最も容易で万人に開かれた行為として、お念仏(=称名念仏)ひとつを選び出して、あらゆる人(すぐれた人ばかりでなく、迷いに迷いを重ねた最低の愚か者まで)にお与えになった本願である。ひとり残さず救うために建てられた本願であるから、それはどんな時代の制約にしばられた人にも有効なのだ。最悪を想定した退歩史観でさえ、お念仏による救いを否定できないのだ。
このことが本当であるならば、お釈迦様から連綿と伝わる教えを受け継いでお念仏の信仰を得る人は、いつの時代にも必ず現れる。宗教というものを忘れてしまったような、この現代日本にも。それは、お念仏自体に宿っている力のためであり、その源は阿弥陀さまの力にあると思われる。しかし、そのお念仏が私たちの歴史の中に実際に生み落とされたのは、歴史の中でそれを説いたお釈迦様の功績なのであり、そのため、お釈迦様がお念仏だけを特別にこの世にとどめる、と表現されているのだ。