1-3 聖道門を捨てる

この聖道門の大意は、大乗仏教であっても小乗仏教であっても、この娑婆世界の中で、四乗の道を修して、四乗の果を得ることだ。四乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗(すなわちあらゆる仏教)である。

選択集では、道綽禅師『安楽集』の説を採用し仏教を大きく二つに分類した。「聖道門」はこの世界で仏となることを目的とする宗教をまとめて指し、「浄土門」は仏の用意した世界にまず生まれ変わって、そこで仏となることを目的とする宗教である。このように分けたからには必然的に、聖道門を捨てて浄土門を採用することになる。なぜならば、今この世界には先に仏となった宗教的指導者が存在しない。お釈迦様はそのような指導者であったがすでにこの世を去り、残された教えは奥深すぎて独力ではとても理解に及ばない。この世界で仏となることを目指すならば、必ず乗り越えられない壁に出会うからである。
浄土は生まれ変わる先であり、この世を去ってから赴く所である。この目の前の世界をあきらめて、死後の世界に望みを託すのは、詰まるところ単なる逃避ではないか、とは一応尋ねてみなければならない。確かに「聖道門を捨てる」という所だけを見れば、これは一種の逃避の態度である。問題はその逃避の先に解決が得られるかどうかだ。浄土門を試してみて、その解決が見えないとならば、やはり逃避せずにこの世で聖道門で頑張るしかない。しかし聖道門の難しさに行き詰まりを感じるようであれば、試す価値はある。そう思って浄土門に入るべきである。
ただし、浄土門はこの世界で仏となることを放棄している。浄土門に入りながら、「実はこのやり方でいけばこの世で仏になれる、浄土門と聖道門はひとつであった」「この世界のことを放棄するという浄土門の姿勢が、実は聖道門で目指していた悟りの姿勢だったのだ」というのはナシである。