2-3目的外の行為

浄土に往生するという目的のためにすべき行為の本質は、浄土をご用意くださった仏の名をとなえること(=念仏)であり、またそれについて経典などで知ることや、雰囲気を調えることも、自分を念仏に導くための行為として役に立つ。これらの行為(正行=しょうぎょう)を目的外の行為(雑行=ぞうぎょう)と比較したのが、善導大師『観経疏』の次の段である。

もし正行を実践すれば、心が常に(浄土やその仏に)親しく近づき念じ続けること、無間(むけん=絶え間が無い)と呼ぶべきである。もし雑行を実践してしまうと、(浄土やその仏を思う)心に常に絶え間が生じる。回向(えこう)して浄土往生に資することもできるとはいえ、こういった行為はすべて(浄土やその仏に対して)疎く雑なる行為と呼ぶべきである。

法然上人はこの文を、『観経疏』の他の箇所も援用しつつ、正行と雑行の五つの点における比較ととらえている。すなわち(1)正行をする人の心は仏に親しいが、雑行の場合は疎い。(2)正行をする人は仏が目の前に来迎し現れるが、雑行の場合は現れない。(3)正行をする人の心は絶え間なく仏を念じているが、雑行の場合は絶え間だらけとなる。(4)正行はそれ自体が浄土往生を目的とするが、雑行は別の目的のための行為であるから、「回向」という目的替えをしなければならない。(5)正行は純粋に往生浄土のための行為であるが、雑行は種々雑多な目的の行為を含んでいる。
法然上人は、百人が実践すれば百人が目的を達成できるのが正行であり、千人が実践してもひとりも目的を達成できないのが雑行であるから、正行をせずに雑行を行ってはならないと戒めている。
これらは論理上は何の変哲もない当然のことであるが、実際問題として信心の定まらないうちは我々の心は飽きやすく、目的外の行為に走っては時間を無駄にしてしまう。これを励まし鼓舞するためは、このような比較を思い返すとよい。