3-5お念仏が容易で万人に開かれているということ

阿弥陀仏が浄土往生のための行為として称名念仏を選択した理由について、ひとつはお念仏が内容的に勝れているということ(勝劣の義)を挙げた。もうひとつはお念仏が誰にでもできる容易な行為であるということ(難易の義)である。

次に難易の義とは、念仏は修し易く、他の行は修し難い(ということだ)。この故に(善導大師の)『往生礼讃』に言うには、「(お釈迦様が人々に)観想をさせず、ただちに専ら(阿弥陀仏の)名を称えさせたのには、どういう意図が有るのか。それは衆生の障り(=煩悩による修行の妨げ)が重いため、境(=観想の対象物)は細やかにして、(それをとらえる衆生の)心は粗く、識(=心)は風に飛ばされ、観想が成就(=達成)し難いことによる。このことによって大聖(=お釈迦様)は悲しみ憐れんで、ただちに専ら名を称えるように勧めた。これはまさしく、称名は容易なので相続できて(=長いこと続けられて)(浄土に)生まれることができるからだ」
また(源信の)『往生要集』に(言うには)、「一切の善業は各々に利益が有って、各々によって往生できるはずだ。何故ただ念仏の一門を勧めるのか。いま念仏を勧めることは、他の種々の妙行(=すばらしい行為)を遮する(=さえぎる)というのではない。(念仏は)ただ男女・貴賤・行住坐臥をえらばず、時・処・諸縁(=その他の条件)を論ぜず(に実践でき)、これを修することが難しくない。そして、臨終に往生を願い求めるに、その便宜を得る(=往生を遂げる)こと、念仏にまさるものはない」
したがって、念仏は易しいが故に一切(の人)に通じる。他の行は難しいが故に諸機(=上下様々な能力をもった人々)には通じない。だから、一切衆生を平等に往生させるために、難しい行を捨てて易しい行を取って本願となさったのではないか。

昔は色々な奥深い修行を重ねて仏教の奥義に到達した聖者もあった。そのためには修行者自身のすぐれた能力、幅広い経験、強い意志の力が必須の条件であったし、人々の寄進や有力者の庇護に支えられて修行に専念できる環境もあった。今この自分は、そんな修行者の能力もなく、宗教的な経験もなく、意志も弱い。日々は自分や家族の生活を支えるのに精一杯で、修行などに割く時間はない。しかしお念仏ひとつだけで、能力も経験も意志力も経済力も時間もないこの自分が、昔の聖者と同等、いやそれ以上の存在に導かれる。これはまぎれもなく、お念仏が万人に実践可能な、容易なる行為であるおかげだ。そう思うにつけても、称名念仏が浄土往生のための行為として規定されている理由がよくわかるのである。