3-7一生涯の念仏から、ただ一度の念仏まで

無量寿経』の本願の文には、「乃至十念(=十回の念仏まで)」する者を浄土に生まれ変わらせるとある。それを善導大師は、「下至十声(=下は十声の念仏に至るまで)」浄土に生まれ変わらせると解釈された。念と声の違いについてはすでに述べた。「乃至(ないし)」を「下至(げし)」と解釈するのは正当なのだろうか。

問:『無量寿経』に「乃至」とあり、(善導大師の)『往生礼讃』に「下至」とある。その(違いの)意味は何か。
答:乃至と下至と、その意味は同一である。『無量寿経』に乃至とあるのは、多より少に向かう(ことを表す)言葉である。(この場合)「多」とは、上は一形(=一生涯)をつくす念仏から、ということ。「少」とは、下は十声・一声など(しか唱えない念仏)に至るまで、ということである。『往生礼讃』に下至とあるのは、下とは上に対する言葉である。「下」とは、下は十声・一声など(しか唱えない念仏)に至るまでということ。「上」とは、上は一形をつくす念仏から、ということ。…

「〜乃至〜」は「〜から〜まで」という言葉であるから、「乃至十念」といえば「〜から十回の念仏まで」ということであり、「〜」には最も多い念仏、すなわち「一生涯かけての念仏」が省略されていると考えられる。ここで、数の少ない方にも多い方にも注目すべきである。
「十回の念仏」によって浄土に生まれ変わらせていただけるというのは、そんなに少ない念仏でも、という数の少なさが強調されるべきであり、十回といっても一回といっても大差ない。念仏は万人に開かれた容易な行為であった。そのことには、どんなに迷いに満ちた人でも一人残らず浄土に生まれ変わらせ仏にしたい、ただ一回でも念仏してほしいという、阿弥陀仏の願いが表れている。だから浄土に生まれ変わるための行為としては、たった一度の念仏で十分なのである。
また、「一生涯の念仏」がここに並べられているということは、一生涯を念仏しながら過ごしてほしい、というのも阿弥陀仏の願いだということだ。数の多さではない。阿弥陀仏は最も勝れた功徳を持つ方であるから、これに帰依を表明し讃嘆する念仏はそれ自体も最高の功徳なのであった。ここには、自分のあらゆる功徳を念仏する人に与えたいという、阿弥陀仏の願いが表れているだろう。だから浄土に生まれることを確信したならば、一生涯をかけて念仏を続けるべきなのである。