8-2三心(さんじん)

苦の解決を与える外部からの力(=阿弥陀仏の本願)は、それが実在するかどうかを客観的に証明することができない。存在するかどうかわからないものに、一体どうすれば自分の最大の問題を預けられようか。それには、同じように道を歩んだ先人の心情を知り、自己もその心情を持つことである。そのような先人の存在こそが、阿弥陀仏の本願が存在する間接的な証拠ではないか。お釈迦様も、歴代の浄土家も、善導大師も、法然上人も、その他の名も無い念仏者たちも、みなそのような先人である。偉大なる先人の心情を知るために、先人の書いた文書の一例として、ここで善導大師『観経疏』の三心釈がひもとかれる。
王妃である韋提希(いだいけ)は、この世の苦から逃れたいと欲して、阿弥陀仏の浄土に生まれ変わるための瞑想法の教えを請う。お釈迦様はそれに答えたあと、おもむろに語り始める。『観無量寿経』の後半である。

かの(=阿弥陀仏の)国に生まれようと願う衆生は、三種の心をおこして、それによって往生する。三種とは何であるか。一には至誠心(しじょうしん)、二には深心(じんしん)、三には回向発願心(えこうほつがんじん)である。(この)三心を具備する者は、必ずかの国に生まれる。

そしてお釈迦様は、種々の人々のありさまを述べ、それらの人々が(瞑想法ではなく)念仏によって往生することを説く。しかしこの三心(さんじん)については、くわしい説明がなかった。法然上人は、善導大師の解釈にしたがってこれを理解しており、『選択集』でもほぼそのすべてを引用している。