4-2称名以外の行為の「無意味」と「意味」

称名念仏という行為を、阿弥陀仏は、浄土に生まれ変わるための行為として規定した(=本願)。しかし経典には称名以外の行為も書かれている。これについて法然上人は三つの解釈を示している。この解釈は、称名念仏だけに価値があることを法然上人が主張するために、それ以外の行為が書かれている理由を説明した経典解釈とも受け取れる。
しかし私たちは、称名以外の行為を多く行っている存在である。称名だけが浄土に生まれるための行為であるならば、その他の行為をするのがむなしく思えてこないだろうか。称名以外の行為についてどう心得ればよいのか。そう、これら三つの解釈は、私たちのその疑問へのヒントでもあるのだ。
心得の一つめは「廃立(はいりゅう)の義」だ。称名以外の行為は、阿弥陀仏の本願でないのだから、浄土に生まれ変わるための行為としては何の意味も持たないと心得るものだ。称名以外の行為は「廃」し、称名だけを「立」てるということだ。法然上人はこの一つめの心得かたを最も本質的なものとしている。称名以外の行為にもともと意味はないと、称名からはっきり分けるのでなければ、そのうち称名以外の行為の方に重きを置く姿勢が生まれてきてしまう。
心得の二つめは「助正(じょしょう)の義」。「浄土往生のための行為」で触れたように、浄土を願い念仏する心をおこすためには、経典などをもとに多少なりとも教えを学ばなければならない。念仏したい雰囲気になるように、浄土や仏を思い浮かべたり、手を合わせ頭を下げ、言葉でたたえ歌を歌い、自らの労を仏前に供養する。人によっては、念仏するために家族のもとを去ったり、念仏の場所として寺を建てたりする。念仏生活を維持するために金を稼ぎ、みんなで念仏する家庭を築き、病で念仏できなければ病と闘う。あくまで称名が「正」(=本質)であるが、もともと意味のない称名以外の行為も、称名を「助」ける力として積極的に役立てようと心得るものだ。
三つめは「傍正(ぼうしょう)の義」だが、これはあくまで経典解釈である。称名以外の行為には、並の人には力及ばないような立派な(=上位の)行為もあれば、子どもでもできるような凡庸な(下位の)行為もある。称名念仏といえば誰にでもできる簡単な行為で、上位も下位もないようだけれども、一日に数万回も称名する人もあれば、一日に一回も称名しない人もいる。やはり上位から下位まであるのだ。どんな行為にしろ上位から下位まであることを示すのが経典のこの箇所の主眼であって、称名と称名以外の行為についての価値判断はここにはないというのが、この解釈だ。
私たちの称名以外の行為には、浄土に生まれ変わるための意味はもともと何もない。ただ、それを積極的に行おうとするならば、称名念仏に自らを導く力として役立てようと心得るべきである。