8-4至誠心:動機の存在(2)

内心と外面の一致を「動機の存在」と言い換えた。「動機」とは、外面的な行動の原因となる内的な契機のことであるからだ。
内心と外面の一致の実例について善導大師は、みずから内心・外面の一致した真実の心を持つことと、他の人に内心と外面の一致した真実の心を持たせるよう導くことを、まず切り分けている。そして、みずから内心と外面を一致させるということについて、二つの実例(=悪をつつしむことと善をおこなうこと)を述べている。
第一に内心・外面一致して悪をつつしむとは、自己にひそむ苦の原因たる悪を内心に許さず、他人の悪に対しても毅然とした意識を持ち、この世の悪に満ちたありさまに迎合しない心を持って、いかなる悪も厳しく排した聖者のように自分もありたいと心中に願い、外面の行動にもいつもその主義を反映することであるという。第二に内心・外面一致して善をおこなうとは、自身は苦を克服するための善なる行為を実践できるようにありたいと内心に希望し、他人の善なるところを見ては賛同して喜び、あらゆる善行の実践に努力した聖者のように自分もありたいと心中に願い、外面の行動にもいつもその主義を反映することであるという。
もっと具体的に言うと、内心には苦の原因たる悪を内包した自己のありさまと、悪と縁の切れないこの世のありさまに迎合せず、阿弥陀仏とその浄土に先に行った人々の正しく善なるありさまを模範とする。そして外面には、できる範囲で、自己のありさまを告白、矯正、反省し、この世のまちがいを指摘、指導、羞恥し、阿弥陀仏とその浄土のありさまについて称賛、献身、追慕する。
これらを善導大師は、善に反する言語・身体・精神上の行動を内心に許さず外面にもつつしみ、善に則する言語・身体・精神上の行動を内面に模範とし外面に実践する、とまとめている。
分相応でよい。我が身とこの世のありさまに動機づけられ、阿弥陀仏とその浄土のありさまに惹かれて「南無阿弥陀仏」とお念仏する。これが、阿弥陀仏の存在を見つけた人の一面である。