8-1阿弥陀仏を自ら見つけるには

苦しみを感じ、苦しみの原因を自己の外でなく、自己の内に求める。しかしながらその原因は自己存在とあまりに密接なところにあり、したがって自分が生きて存在しているかぎり苦しみから逃げおおせることはほぼ不可能である。このとき浄土門の教えが示すのは、自己の外部にすでに存在し、この自己に解決を与えようとするはたらき(=阿弥陀仏の本願)である。そのようなはたらきが本当に存在するのかどうか、初めは誰もわからないのだが、それはしばらく置く。その阿弥陀仏のはたらきに応じるための行為は、これまでの章で述べられたように、南無阿弥陀仏と声に出してとなえること、ただひとつである。これを言い換えると、「阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏ととなえる者だけを、浄土に迎えたまう」ということになる。上述のとおり、この解決を生きたまま得ることはできない。阿弥陀仏が生きている人に与えるのは、ひとつの人生全体を超えたレベルの解決である。言い換えると、死後の浄土往生である。
上述の話の筋において、前半に説明したような阿弥陀仏がほんとうに存在するかどうかが、後半に書かれた行為を実践して目的を達成することができるための、大きなポイントである。自己の外部にあって自己に解決を与えようとするこの阿弥陀仏の存在を、何もないところから出発して、理論的に説明することは、非常に困難である。そのような仕方で阿弥陀仏の存在を知ることはできない。他者の力を借りずに、無の中から独力で阿弥陀仏を発見することはできない。かろうじて、すでに阿弥陀仏の存在を知っている他者を手がかりに、我々は阿弥陀仏の存在を知ることができる。お釈迦様がまず最初に阿弥陀仏を発見した。これを受けて阿弥陀仏を見つけた人が浄土経典を記した。それを読んだ歴々の浄土家が各々阿弥陀仏を見いだし、我々もそれを伝え聞いて阿弥陀仏に出会うのである。
さていま、唐の善導大師という人が、一人の浄土家として阿弥陀仏を知り、自らの心のさまを『観経疏』という書物に「三心」の解釈として記した。一人の人が、ただ南無阿弥陀仏と称えれば往生すると信じて念仏する、その心をくわしく説明したものが「三心」である。目の前に熱心な念仏信者がいて、その信者の言行を目にして、自らも阿弥陀仏を信じることもある。善導大師の三心の解釈をよく味わって、念仏しながら、自らの心に三心がそなわっているかどうかを確認していくうちに、阿弥陀仏を信じるに至ることもある。どちらも同じことだ。後者は、善導大師という一人の信者の言行を目にして、それを手がかりに、自らも阿弥陀仏を信じるのである。いまこの『選択集』は、文章によって人に念仏を伝えようとする書物である。それゆえ『選択集』では後者の方法に従い、三心の解釈に記された善導大師の心中をのぞきながら、阿弥陀仏を知る一人の人の心を学び、自らの心をそれに合わせるべきであると説いている。