3-6念仏とは称名である

死後に浄土に生まれ変わるために私たちがすべき行為として、内容的に勝れ、また万人に開かれた称名(=南無阿弥陀仏ととなえること)を、阿弥陀仏が選んだと述べてきた。しかし前にも見たように、『無量寿経』の本願の文には「称名」という文字はなく、ただ「念ずる」とあるだけだ。念は心に思うこと、称名は声に出すことで、両者は異なるようだが、「念」の字を善導大師は「称名」と大胆に解した。

問:『無量寿経』に「十念」とあり、(善導大師の)『往生礼讃』には「十声」とある。念と声はどう違うのか。
答:念と声は同一である。何(の証拠)をもって知り得るかといえば、『観無量寿経』の「下品下生」の段に、「(伝道者が罪びとに)声を絶えさせず、十念を具足して南無阿弥陀仏と称させると、(罪人は)仏名を称するが故に、念念(=一つ一つの念)の中において八十億劫の(長い期間にわたって)生死(輪廻すべきほど)の罪が除かれる」とある。今この文によると、声とは念であり、念とはとりもなおさず声であること、その意は明らかである。…

昔から、仏や浄土の様子を観想する行為も、声に出して仏の名を唱える行為も、ともに念仏と呼ばれてきた。「念」という漢字には「口にとなえ、読む(唸)」の意味もあり、観想も称名も含むと考えられてきた。しかし法然上人は、内容的に勝れ、万人にも開かれた称名こそ、阿弥陀仏が指定なさったに違いないと考えた。その証拠に『観無量寿経』のこの部分には、念の字と声・称の字を入れ替え入れ替えしながら、「念とは声である」と説明している。「同一」とは言っても「心」を否定し「声」をとるということである。
ちなみに親鸞はこれを「念と声とはひとつの意味を示すと解すべきということだ。念を離れた声はなく、声を離れた念もないと」(『唯心鈔文意』)と述べ、心に南無阿弥陀仏とおもうも、声に南無阿弥陀仏ととなえるも、結局は南無阿弥陀仏ということであって同一としている。浄土宗西山派には、心におもうならば必ず声に出るという解釈もあるという。これらは「心」と「声」の両方に価値を見る解釈だ。