3-3阿弥陀仏の本願

阿弥陀仏は、言葉でも想像でも表せないような深遠なる真理を悟っておられるが、真理そのものだけを指して阿弥陀仏とお呼びするのではない。阿弥陀仏は、救いを求める人の前に姿を現して導くが、そんな形でとらえられるものだけを指して阿弥陀仏とお呼びするのでもない。阿弥陀仏は、四十八の誓願で表されるような衆生救済の意志を実現して今ここにはたらく存在であり、特にその第十八願に表されるように衆生の念仏という行為をもとに、浄土という世界に人を生まれ変わらせる人格だ。その誓願阿弥陀仏の現れ出たそもそものみなもとであったから、本願(ほんがん)と呼ぶ。
阿弥陀仏やその浄土を哲学的に追究することは、そうしなければお念仏できないというなら仕方がないが、とにもかくにもお念仏ができるようになったならば哲学は捨てるべきだ。哲学の追究は、浄土門の信仰を外面から観察するものであり、その立脚点は聖道門にある。仏とは何かを考えるのは聖道門の範疇だ。それを考えられないから浄土門を選んだのだ。ただ、聖道門の見方で阿弥陀仏を詮索する人に対してのみ、法身とか報身という説明があるのだ。言い換えれば、信仰に入る前に阿弥陀仏は本当に存在するのかと気になるから、哲学的に、真理と自己が存在する結果の必然の作用として阿弥陀仏があるのだ、阿弥陀仏はフィクションではないのだと、ひとまず説明されているのだ。経典を勉強するのが、自分をお念仏に導くこと(助業)であるというのは、そういうことだ。

だから、なぜ阿弥陀仏はお念仏という行為をもとにして衆生を救済するのか、なぜお念仏なのかとこれから問うけれども、それは浄土門に入った人のお念仏を勇気づけるために問うて答えるのである。哲学的にお念仏のすぐれていることを証明するためではない。

何故、第十八願において阿弥陀仏は一切の他の行為を選び捨てて、ただ念仏という一つの行為だけを選び取って、浄土に生まれ変わる本願となさったのだろうか。阿弥陀仏の意中は推測しがたい。たやすく理解することはできない。しかしながら、今試しに二つの義(理由)をもってこれを理解するならば、一には勝劣の義、二には難易の義である。