選択集
この『選択集』の第十六章では、念仏でなければならないという念仏の必然性を振り返り、また我々が念仏を選ぶにいたる過程を振り返った。念仏が必然であると聞いてから、実際に念仏を選ぼうとするまでの間には、「念仏が必然であることを信じる」という大切…
生という苦しみから脱出する方法として、念仏は、あらかじめ選び抜かれた必然の結論なのであった(「念仏の必然性」)。しかし、苦からの脱出を求める多くの人にとって、それは初めから自明ではない。まず、生に苦しみを感じて、そこから脱出したいと願い(…
この『選択集』は、阿弥陀仏、釈迦仏、諸仏が念仏だけを選択していることを顕そうという書物である。まず阿弥陀仏の選択。生きることは矛盾に満ちており、人生に悩みは尽きない。そこに、一個の人間の生を超えた立場から、より大きな世界を与えてくれるのが…
『阿弥陀経』では、お念仏についてのお釈迦様の説法が終わると、舎利弗以下の数々の聴衆は、教えを聞き終えて喜び、去っていく。これについて善導大師の『法事讃』では、 世尊(=釈尊)は、説法の時間がまさに終わろうとするにあたって、丁寧に阿弥陀仏の名…
阿弥陀仏を初めとする諸仏・諸菩薩・諸天の「護念」について、信仰の強化という観点から意義を考えてきたが、別の角度からも考えてみたい。善導大師の『観念法門』には (念仏する人を諸仏が護念すると説いてあることから『阿弥陀経』のことを『護念経』とも…
諸仏による護念(=普遍性による信仰の強化)と阿弥陀仏および諸菩薩による護念(=阿弥陀仏の再認による信仰の強化)について述べたが、『選択集』は 常に一切の諸天および四天大王、龍神八部が、(念仏する人に)付き随って影のように護り、(念仏する人を…
阿弥陀仏による救いということは、たとえ自己の周辺の特殊な経験であっても、信仰者自身にとっては構わない。しかし、これが普遍性を持つ救いであるとされることで、信仰はさらに強化される。「諸仏による護念」をそのように解した。ところで、 ただ六方の如…
阿弥陀仏による救いを実際に感じ取った他者がいて、その特定の他者を知ることをきっかけとして、私達は阿弥陀仏による救いを信じることができたのである。このように私自身の経験は特殊的であるけれども、阿弥陀仏による救いというその内容じたいは、道を求…
この自分が阿弥陀仏による救いを信じることができるのは、阿弥陀仏による救いをすでに受けている他者(法然上人、善導大師、お釈迦様など、あるいは身近な念仏者)を通じて、その救いが実際にあることを確認できるからであろうと述べた(「阿弥陀仏を自ら見…
『阿弥陀経』の中で、お釈迦様が、聞き手の舎利弗(しゃりほつ)に対し、 少なき善根・福徳の因縁によって、かの(=阿弥陀仏の)国に生まれることはできない。 舎利弗よ。もし、善良なる(=仏の教えを疑わぬ)男子や女人が、誰かが阿弥陀仏のことを説くの…
阿弥陀仏の浄土に生まれ変わって、生きる苦しみを解決したい。そのために自分は今、何をすれば良いのだろうか。これは初めの方でも発した問いであった(以前の記事参照)。 『観無量寿経』では、お釈迦様が、質問者に向かって、さまざまな精神統一法や徳行を…
『観無量寿経』にいう。 念仏する人は、 人々の中でも白蓮華(のように美しき人)である。 観世音菩薩と大勢至菩薩が、その人の勝れた友となる。 ゆくゆくは道場に坐す(=悟りを得る)であろう、また諸仏の家(=阿弥陀仏の浄土)に生まれるであろう。 阿弥…
阿弥陀仏がこの自分を救おうと誓い、その誓いを実現している。言い換えれば、たった一回「南無阿弥陀仏」と声に出すことによって、自分の死の際に阿弥陀仏が必ず来臨し、自分を浄土に連れて行く。これを直観した人は、「死」を越えてなお存在する自分、しか…
称名念仏に統一された生活を継続していくために、具体的な4つの注意点(四修=ししゅ)がある。 恭敬修(くぎょうしゅ):阿弥陀仏に関係するすべてのものに対して、うやうやしさの態度を持つことである。これは、高慢・尊大をいましめるものである。念仏を…
往相(おうそう)とは往生する相、浄土にむかう過程ということである。過去の自己の行為を振り返りながら、あるいは生活の中の日常的な行為をおこないながら、それらの行為の力をすべて投入して、自分が浄土に生まれ変わろうと願う。これは、浄土に往生する…
三心の三番目は「回向発願心(えこうほつがんじん)」。行為をある目的に向けて(=回向)、その目的を達成しようと願う(発願)心である。どのような行為を、どういう目的に向けて、その達成を願うというのだろうか。これに二種類ある。往相(おうそう)の…
「信機・信法」では、阿弥陀仏の救いが客観的に存在することは受け入れると前提し、「自己の至らなさが原因で、救いが自分に届かない」と疑う心への対処を問題とした。その糸口は、善導大師という、すでに救いを確信した先達に基本的信頼を抱くことにあった…
三心の二番目は「深心(じんしん=深い心)」。深く何をする心かというと、深く信じる心である。何を深く信じる心かというと、阿弥陀仏が自分を救ってくださることを深く信じる心である。 阿弥陀仏が救いを与えてくださることは、いくら自分ひとりで考えても…
内心と外面の一致を「動機の存在」と言い換えた。「動機」とは、外面的な行動の原因となる内的な契機のことであるからだ。 内心と外面の一致の実例について善導大師は、みずから内心・外面の一致した真実の心を持つことと、他の人に内心と外面の一致した真実…
善導大師は、三心のひとつめの至誠心(しじょうしん)を「真実心」と言い換え、仏道を理解・実践するには必ず真実心の中に行わなければならないということだとしている。すなわち、外面に賢・善・精進(=賢く、善良で、努力精進する姿)を見せて、内心に虚…
苦の解決を与える外部からの力(=阿弥陀仏の本願)は、それが実在するかどうかを客観的に証明することができない。存在するかどうかわからないものに、一体どうすれば自分の最大の問題を預けられようか。それには、同じように道を歩んだ先人の心情を知り、…
苦しみを感じ、苦しみの原因を自己の外でなく、自己の内に求める。しかしながらその原因は自己存在とあまりに密接なところにあり、したがって自分が生きて存在しているかぎり苦しみから逃げおおせることはほぼ不可能である。このとき浄土門の教えが示すのは…
ただ「南無阿弥陀仏」と称名することだけによって、仏のご用意くださった浄土に生まれ変わることができる。それはこの肉体の死後のことである。一方、それによって生きている自分に与えられる心の平和も大きい。では、このように生きている間に念仏者に与え…
過去と現在、未来を比べるとき、未来の方がより進歩・発展しておりすばらしいという、進歩史観的な見方が一般的だ。しかし仏教には、時代が下るほどに人々は堕落し、仏の教えの効力も薄れるという退歩史観的な考え方がある。どちらの見方を受け入れたものだ…
上位から下位までの三つの階位の人について、念仏とその他の行為を例示しつつ述べたあと、『無量寿経』には 仏(=お釈迦様)は弥勒に語られた。「彼の仏(=阿弥陀仏)の名号を聞き得て、歓喜踊躍して(=踊りだしそうなほどに喜んで)一念でもすれば、この…
称名念仏という行為を、阿弥陀仏は、浄土に生まれ変わるための行為として規定した(=本願)。しかし経典には称名以外の行為も書かれている。これについて法然上人は三つの解釈を示している。この解釈は、称名念仏だけに価値があることを法然上人が主張する…
苦しみを感じ、そこから抜け出したい。それなのにこの世界の中にあって、一切の苦しみを抜け出すのは不可能だと思われる。ここで、すでにそれを達成した方の側からの働きかけがある。「たった一声の南無阿弥陀仏を実践した者さえ、その死後には必ず我が浄土…
『無量寿経』の本願の文には、「乃至十念(=十回の念仏まで)」する者を浄土に生まれ変わらせるとある。それを善導大師は、「下至十声(=下は十声の念仏に至るまで)」浄土に生まれ変わらせると解釈された。念と声の違いについてはすでに述べた。「乃至(…
死後に浄土に生まれ変わるために私たちがすべき行為として、内容的に勝れ、また万人に開かれた称名(=南無阿弥陀仏ととなえること)を、阿弥陀仏が選んだと述べてきた。しかし前にも見たように、『無量寿経』の本願の文には「称名」という文字はなく、ただ…
阿弥陀仏が浄土往生のための行為として称名念仏を選択した理由について、ひとつはお念仏が内容的に勝れているということ(勝劣の義)を挙げた。もうひとつはお念仏が誰にでもできる容易な行為であるということ(難易の義)である。 次に難易の義とは、念仏は…