8-6深心:阿弥陀仏の本願の確信(2)

「信機・信法」では、阿弥陀仏の救いが客観的に存在することは受け入れると前提し、「自己の至らなさが原因で、救いが自分に届かない」と疑う心への対処を問題とした。その糸口は、善導大師という、すでに救いを確信した先達に基本的信頼を抱くことにあった。その善導大師が「自分の至らぬありさまに確信を持て」と言ってくれていることによって、自己の至らなさが肯定され(許され)、それが救いを受けることを妨害しないという確信を持つにいたるのだった。
ここで前提とされた、「阿弥陀仏の救いが客観的に存在すること」は、いかにして受け入れられるのか。続く善導大師の説明は長く詳しい。要約で見てみよう。
ここには信の確立の二つの様相が書かれている。一つめは、「阿弥陀仏の救いなど嘘だ」と挑戦してくる四種類の人々の例を挙げて、そのいずれについても疑いをおこすべきでない理由を示している。その理由とはつまるところ、阿弥陀仏の救いを説かれた仏(お釈迦様や十方の仏たち)にまちがいがあるはずがない、ということだ。二つめは、阿弥陀仏の救いにあずかるために、自分がどのような行為を実践すべきなのかを明らかにしている。それはすべて阿弥陀仏やその浄土に関係する行為である。
一つめを、四種類の挑戦者を例に示していることから「人についての信の確立」、二つめを、実践すべき行為を挙げていることから「行についての信の確立」と呼ぶ。人と行の対比に見えるが、これを対比的にとらえることには意味が少ないように思われる。これは「疑いの原因」と「疑いの結果」を説明しているととらえたい。
「人についての信の確立」は、疑いの原因に対処することを示している。「阿弥陀仏の救いなど存在しない」「自分には届かない」などという様々な疑惑に対し、「それでも自分は阿弥陀仏に救われる」と固い信念を持つことが必要だ。その信念の根拠は、説いた仏たちの正しさにあるという。要するにこれも「先達への信頼」だ。
「行についての信の確立」は、阿弥陀仏の救いに関する様々な疑いが、結局は、阿弥陀仏の救いをたのむ以外の雑多な行為として現れることから、これをいましめるものだ。善導大師の文面は「これら雑多な行為は無益であり、阿弥陀仏に関係する行為だけを実行せよ」ということだが、それは信を確立すればついてくる結果である。
さて、そもそも「阿弥陀仏の救いが客観的に存在することをどう受け入れるか」と問うたのだが、答えは「阿弥陀仏の救いを信じた先達は確かにいたのだから、阿弥陀仏の救いも確かに存在する」ということに尽きた。さらに言えば、阿弥陀仏の救いを確信した先達に(生身あるいは書物を通して)触れることで、阿弥陀仏のはたらきの一端をじかに感じる経験をするのである。「阿弥陀仏の力は現にこの人にはたらいている」と感じ取るのである。
また、これを人のこととしてとらえるだけでなく、同種の力が自分にはたらいていることを実感するのである。法然上人は別のところで、「浄土への往生は決定したと思う心を、深心と呼ぶのである」と述べている。これは自己のことだ。初めは先達をとおして阿弥陀仏をかいま見るのだが、その阿弥陀仏の力が自己にも向けられていることを多少なりとも感じるのでなければ、深心を具備したとはいえない。それは、先達の中に阿弥陀仏を見出した以上は、むずかしいことではないはずである。先達の見ている阿弥陀仏は、この自分を含めたすべての人を救いの対象としているのだから。