8-5深心:阿弥陀仏の本願の確信(1)

三心の二番目は「深心(じんしん=深い心)」。深く何をする心かというと、深く信じる心である。何を深く信じる心かというと、阿弥陀仏が自分を救ってくださることを深く信じる心である。
阿弥陀仏が救いを与えてくださることは、いくら自分ひとりで考えても、客観的な説明がつかないのであった(以前の記事参照)。それはいかにして信じられるのか。ひとまず、ここに善導大師が書き記している、比較的短い説明がある。

深心とは、深く信じる心である。これに二種類ある。
一つめは、「自分は今まさに、罪悪を犯しながら苦しみの生き死にの中を流されゆく、ただの人であって、この魂はいままで長い時世を経てきたが、その流れの中に常に沈み、常に流されて、ぬけ出す機会などまったくなかった」ということを、決定的に深く信じること。
二つめは、「かの阿弥陀様は、四十八の本願によって衆生をお引き受けくださる。その本願の力に乗って、必ずや往生がかなうことに何の疑いもためらいもいらない」と決定的に深く信じ、また「お釈迦様はこの『観無量寿経』の『三福』『九品』『定善』『散善』などの教えを説いて、阿弥陀仏の世界と人々をほめたたえることで、私たちに願い慕う心をおこしてくださった」と決定的に深く信じ、また「『阿弥陀経』の中にあるように、十方の世界にいらっしゃるという無数の仏たちが、『一切の凡夫は必ず、阿弥陀仏の世界に生まれ変わることができる』と証明してお勧めくださっている」と決定的に深く信じること。

一つめの信は、自分のありさま(=機)についての信念であり、信機という。二つめの信が、深心の本体というべき、阿弥陀仏が救いを与えてくださるという事実(=法)についての信念であり、信法という。なぜ、一つめの信機をわざわざ説明してあるのか。それは、「自分のようなどうしようもない者が、阿弥陀仏のもったいない救いをいただくことなど、到底ありえない」と卑下の心をおこして、自分に救いがもたらされることを疑ってしまうといけないからである。そうならないために、まず「自分はまったくどうしようもない者だという信念を持て」と、常識とは逆のことを言って、続けて「そのうえで、そのようなどうしようもない者を、阿弥陀仏はお救いくださるのだから、信じなさい。お釈迦様も十方の仏たちも、そう言っている」と言うのである。
人はだれでも向上心があるから、自分のよいところを見つけて、満足したいと思っている。ところが実際は、動物的なる本能に支配された盲目的なこの自分であるから、見つけようと思わなくても、至らぬ点がたくさん出てきてしまう。これによって「自分は、救いを受ける資格がない」という思いが生じるが、これは阿弥陀仏の開かれた救いに対する、一種の「疑い」である。この疑いが生じてくる原因は、自己のありさまへの認識が足りないというのではなくて、阿弥陀仏は救いを受ける資格など設けていない、誰にでも資格がある、ということを信じないことである。この疑いに対処するのに、「阿弥陀仏は誰をも救う」と直接的に言うのではなくて、「自分の至らぬありさまについて信念を持て」と逆説的に言うのは、一種のレトリックのようであるが、なるほど絶妙の表現であって、このとおりに信念を持つべきである。そうすることで、阿弥陀仏の救いに対する大きな疑念のひとつが、解消されるであろう。
ちなみにこのレトリックは、善導大師が使っているからこそ成り立つものである。「自己の至らぬありさまに確信を持て」ということは、ふつうの人が発したところで、「阿弥陀仏は誰をも救う」という意味にならない。善導大師という、すでに阿弥陀仏の救いを確信したお念仏の先達が発することばだからこそ、「あの人がそう言うのだから、この至らぬ自己のありさまを、自分も肯定してよいのだ」という心理を起こさせるのだ。これは「自己の至らぬありさまが許された」という心理である。これが、「こんな至らぬ自分にも、阿弥陀仏の救いが届くのだ」という確信に結びつくのだ。すなわちこの「信機・信法」による深心の確立には、この教説を述べた善導大師という先達への基本的な信頼(=帰依)が、実は必要なのである。