3-2阿弥陀仏と法蔵の話

遠い過去、ある国王が仏の説法聞いて出家し、法蔵と名乗った。法蔵は四十八の誓願を立て、兆載永劫の時をかけてこれを実現し、いまより十劫前に阿弥陀仏となった。遠い過去とは人類発祥以前なのか? 地球あるいは宇宙の創生以前なのか? 国王とはある一人の人間なのか? 人類発祥以前に果たして「国王」が存在するだろうか? 十劫より前には阿弥陀仏は存在しなかったのか?
ここでわかりやすい例として親鸞をもちだしてみると、親鸞は「弥陀成仏のこのかたは今に十劫と説きたれど、塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも久しき仏と見えたまう」と『大経和讃』に歌い、教義上は時間的に有限の過去しか持たないというが、自身の信仰上は無限の過去より存在する仏であると信じる、と告白しているようである。
禅者として有名な鈴木大拙は、浄土真宗の曽我量深との対談で、こう語っている。「キリスト教的にいうと神は世界を創造したという。もう一つ上へ上って、何が神をして世界を造らしめたか。神が何故世界を造らなければならなかったか。そうさせるものが神の中に動いているに決まっている。それが何かというと神が自分を知ろうと思った。自分を知るということは、仏が衆生を化度しようと考え出したことと同じことになる。それが他力である」(『曽我量深対話集』彌生書房)
これは難解な発言であるが私見で解釈を加えると、「自己を知る」という禅者の命題において、自己とは何かを追究していくと自己をこの身に限定する理由が消えて、自己とは宇宙(あるいは世界)の単なる一部ではなく宇宙そのものととらえられる。「自己を知る」という命題はそもそも自己を救済する必要から与えられたものであるが、自己を宇宙大にとらえる時、自己を知ろうとする意志は宇宙を救済する意志と等しい。鈴木大拙は、経典に説かれた阿弥陀仏による衆生救済の意志(誓願)を、このような宇宙そのものを自己とする存在の自己救済意志ととらえている。
道綽禅師、善導大師、そして法然上人は、阿弥陀仏の報身としての性格を強調した。これは仏の身体を法身・報身・応身で説明する当時の趨勢に従ったものである。いま『逆修説法』『無量寿経釈』などに説かれる法然上人の説明に沿うと、阿弥陀仏は徳性としてこれら三身を持っており、法身とは悟られる真理そのものを仏身と見たもの、報身とはそれを悟る智慧。すなわち法身と報身は客体と主体の違いである。また報身が真理を悟った主体であるということは、その原因となる行を修した結果を体現しているということであり、この点が無量寿経に説かれる法蔵の説話と一致する。応身とは歴史上のお釈迦様のように苦しむ人の前に現れ出た仏である。阿弥陀仏道綽禅師以前は応身ととらえられることが多かったが、それは阿弥陀仏衆生の意に応じて救済をもたらす点によるのだろう。
我々が信仰を得る前に『無量寿経』の法蔵説話を聞いて理解に苦しむのは、国王なり法蔵なりが何なのかがつかめないのが大きな理由であろう。阿弥陀仏が応身だとすると、法蔵やその前身の国王は何者かということになる。これに対し先の鈴木大拙のような説は、報身としての阿弥陀仏の説明だといえる。法身は真理(自己とは何かという問いの答え)、それを知る主体が阿弥陀仏であり、報身が真理を得るはたらきが衆生救済に当たるとの説明だからだ。そのはたらきがあるからには、それを可能にする原因、すなわち法蔵の誓願と兆載永劫の修行、そのもととなる国王の出家がなければならない。すなわち我々の経験する順番としては、阿弥陀仏との接触が初めにあり、その救済のはたらきを説明するために、法蔵の誓願と修行、さらに国王の出家が説かれているのである。
決定往生心を確立する(すなわち阿弥陀仏の存在を自ら確かめる)より前に法蔵説話に対して疑問が生じる場合、この程度の答えが可能ではある。しかしそれを哲学的に追究することはやめた方がよい。なぜならこのような説は、阿弥陀仏やその誓願の存在への疑問が念仏の実践をさまたげるから必要なのであって、一筋縄に理解はできなくとも、何かそのような難しい理論で証明されているらしいと、一応納得できた気になってお念仏に集中できるようになれば、ゆくゆく実際の体験として阿弥陀仏を知ることができるためである。