3-1阿弥陀仏

浄土に生まれ変わるためになすべき本質的行為は、浄土をご用意くださった仏の名をとなえること(称名=しょうみょう)であると前述されたが、いまその根拠が示される。

無量寿経』上巻に、「もし我れ(=阿弥陀仏)が仏位を得たのちに、十方世界の衆生が、至心(ししん=心を尽くして)に信楽(しんぎょう=信心をもって願う)して我が国に生まれたいと欲して、乃至(ないし)十念でもしたときに、もし(その衆生が我が国に)生まれないならば(我は)正覚を取るまい」とある。

すなわち阿弥陀仏という仏が、浄土を実現するに先だって四十八の誓願を立てたと『無量寿経』上巻に書かれている。その浄土実現の基本方針のひとつが、上に示した文なのである。その意味するところは、自分が仏となった後にその浄土に生まれ変わりたいと心から願う人がいたとして、その人がたったの十念でもしたならば、必ずその人を浄土に生まれ変わらせよう。そうならないならば自分はまだ仏とはならないぞ、ということである。後に説明するように「十念」を「たった十回あるいは一回でも称名すること」と解釈することで、称名が浄土往生のための本質的行為となるのである。浄土をご用意くださった仏自身が、称名を浄土往生のための行為と定めているというのだ。
経典にそのように書いてあるといえば一応はそのように納得できるかもしれない。しかし、阿弥陀仏という存在が経典に書いてあるというだけでは、それを心から信じることができるだろうか。

阿弥陀仏は、いつ、何という仏のもとでこの願を起こされたのか。『無量寿経』によると、遠い過去、久遠無量不可思議無央数劫(劫=こう;長い時間の単位)に、錠光仏が世に出て、…次に光遠という仏があって、…このような諸々の仏が五十三仏あった。皆ことごとくすでに世を去った。その次に仏があって世自在王仏といった。その時にある国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて、心に悦びをいだいて、さらに無上正真の道意を発し、国や王位を捨て僧侶となって、法蔵と名乗った。…

この国王が出家し僧侶となったのが法蔵であり、法蔵が四十八の誓願を起こして、兆載永劫という長い時間をかけてこれを完成させ、いまより十劫前に阿弥陀仏となった。
これはそのままではなかなか信じ難いことである。このような問題の本質的な解決には、決定往生心の確立を待たねばならないのであり、信仰と離れたところで議論しても意味がない。とはいえ諸祖師にも阿弥陀仏についてのそのような議論は見られるし、人を信仰に導き入れるには一時的にそのような論議をすることも必要かもしれない。それに、先に「浄土や往生については、そういう自分のまだ知らないことがあるのだと、伝聞による事項として仮の了承をしておけばよい(id:livesutra:20080305)」と言ったが、いつまでもそれで済ますことはできないであろう。