1-1 お念仏の動機

お念仏をするのは、そもそも何のためだろうか。

一切衆生にはみな仏になれる可能性(仏性)があるという。(また一切衆生は)限りない昔から輪廻転生を繰り返すうちに数多くの仏に会った(そして教えを受け自らも仏になる機会があった)はずだ。なのにどうして今に至るまで、いまだに生死輪廻して、火宅(かたく=この苦に満ちた世界)を脱出していないのだろうか。

選択本願念仏集の冒頭では、道綽禅師『安楽集』を引用して、何故いま自分は苦しみの生き死にを輪廻しているのだろうかと、自問している。そして、苦しみを除くためには大乗仏教にしたがうことが必要であり、その大乗仏教を二分して聖道門と浄土門に分けている。さらに、聖道門が自分に向かない理由を挙げて、浄土門の念仏でなければならないとしている。つまりお念仏をしなければならない動機とは、苦しみの生き死にの輪廻を抜け出したい、という願望に尽きる。
お念仏の動機について、法然上人が詳しく語ることはあまりなかったと思う。それは、その時代が波乱の時代であり、苦しみということが意識せずとも自明であったからかもしれない。
今の時代でも、苦しみを感じ、それを解決したいと願う人だけが、仏教ひいては念仏という道に入ることができる。簡単なことで解決できる苦しみは、仏教の動機とならない。深い苦しみを抱える人だけが、念仏を求めることができる。いや、苦しみは誰もが潜在的に持っているはずだが、それに眼をつむっていると念仏の動機とはならない、ということか。
輪廻、というのも厄介だ。輪廻を信じなければお念仏はできないのか。往生はできないのか。そんなはずはない。輪廻を信じた昔の人の心に生じたエッセンスは、今の世でも同じく生きるはずだ。これは苦しみをどう受け止めるかということだと思う。過去の生き死に、これは現在の苦しみの原因を遠い過去にまで求めること。自分が生まれる前の、通常は自分の責任でないと思われるようなことでさえも、自分のものとして請け負う態度である。苦しみを安易に自己の外部の責任に帰しても、解決にはならないことに気づくことが大事だ。また未来の生き死には、今この苦しみを解決せずにいたならば、その悪い結果を必ず自分で受け取ろうという覚悟である。まだ見ぬ自己の死というものを、苦しみの終結と認めない。認めてしまえば、どうせ死ぬのだから、という自己への言い訳が生まれる。死んでしまえば楽になるという自暴自棄が生まれる。しかしどうせ死ぬことを言い訳に生きて、何かが解決しただろうか。そして自ら命を絶つことは、解決の放棄にすぎないのだ。