8-7回向発願心:生活の統一(1)

三心の三番目は「回向発願心(えこうほつがんじん)」。行為をある目的に向けて(=回向)、その目的を達成しようと願う(発願)心である。どのような行為を、どういう目的に向けて、その達成を願うというのだろうか。これに二種類ある。往相(おうそう)の回向と、還相(げんそう)の回向である。まず、往相の回向が述べられる。

(第一には)過去および現在の人生で、自己が、身体的・言語的・精神的に行為して得る、一般社会的または仏教的な善根(=善なる行為がよい結果をもたらす力)。また(第二には)あらゆる他者――凡庸な人から聖者まで――が、身体的・言語的・精神的に行為して得る、一般社会的または仏教的な善根について、(自己が)賛同すること。これらの自己および他者の善根をすべて、至誠心・深心のうちに、阿弥陀仏の世界に生まれ変わるという目的に向けて、その目的の達成を願う。これを回向発願心とよぶ。

阿弥陀仏の世界に生まれるために実行すべき行為は、称名だけである。わざわざその他の行為を実行せよというのではない。これは、すでに実行し終えた過去のおこないや、日常の生活の折々に自然に実行するようなおこないのことである。それらを過去のものとして忘れてしまったり、漫然と実行したりするのではいけない。阿弥陀仏の世界に生まれ変わるために役立つことを願いながら、過去の行為を振り返り、日常の行為を実行せよというのである。
日常の行為を、阿弥陀仏に関連づけて実行することには、大きな意味があると思われる。法然上人は別のところで、「他者の善根に自ら関係してこれを助けることは、自己の往生の助業となる」という内容を、回向発願心とむすびつけて語っている。このことから察するに、阿弥陀仏のことを思いながら日常の行為をおこなうことによって、お念仏の継続が助けられるのである。
回向発願心が念仏の継続性に関連することは、法然上人が「お念仏から後退し転落することがあれば、回向発願心が欠けているのだ」と別の箇所で述べていることからも推察できる。
善導大師はここで、たとえ話をもちだす。西へむかう旅人の前に、水の河と火の河という二つの大河があわられ、後ろからは猛獣や悪者が迫ってきた。二つの大河の間には、白く細い道が続くばかりである。そのとき東から「その道を進め」、西の岸からは「私が護るから、その道を来い」という声が聞こえ、決意してその道を進むと、無事に西の岸についたというのである。これは、阿弥陀仏の世界をめざす念仏者のまわりには、自己のむさぼりや怒りなどの煩悩による念仏挫折の危険が立ちはだかっているが、念仏を勧めるお釈迦様と、念仏を用意した阿弥陀仏の意にしたがって進めば、その護りを得て、かならず目的を達成するというのである。そして、次のように結んでいる。

念仏をおこなうすべての人は、歩いていても、立ち止まっていても、座っていても、臥していても、身体的・言語的・精神的な行為において、昼夜かまわず、常にこのたとえ話のように理解し、常にこのたとえ話のように思うのである。これを回向発願心と呼ぶ。

このように、過去および日常生活のあらゆる場面を、阿弥陀仏との関連によって統一することで、念仏の挫折の危機からまぬがれ、念仏を継続できるのである。