7生きている念仏者への恵み (光明の意味)

ただ「南無阿弥陀仏」と称名することだけによって、仏のご用意くださった浄土に生まれ変わることができる。それはこの肉体の死後のことである。一方、それによって生きている自分に与えられる心の平和も大きい。では、このように生きている間に念仏者に与えられるものについて、『選択集』はどう述べているだろうか。

無量寿仏(=阿弥陀仏)に八万四千の相(=大きな特徴)がある。一つ一つの相に、おのおの八万四千の隨形好(=細かな特徴)がある。それら一つ一つに、また八万四千の光明がある。一つ一つの光明は、あまねく十方の世界を照して、念仏の衆生を摂取してお捨てにならない。

と『観無量寿経』にある。仏の光明はすべての人を照らすが、そればかりでなく、称名念仏する者に対しては「摂取」という恵みすらあるということだ。これを善導大師は『観経疏』においてかみ砕き、念仏者と仏の間の三つの関係性、すなわち親縁(しんねん)・近縁(ごんねん)・増上縁(ぞうじょうえん)として具体的に表現している。

親縁:仏の眼・耳・心はいつも我らに向けられており、念仏する身・口・心を親しくお感じになるということ。
近縁:仏と共にありたいと願う念仏者の心に答え、仏はぴったりと念仏者のそばにあるということ。
増上縁:仏からのそのほかのいろいろな恵み。永遠の時を費やして償わなければならぬはずの、我らのこの罪がすべて許されること。命終ろうとする時には、仏が自ら迎えに来られること。この身・この世界にまつわるいろいろな悪魔から、信心を守られること。

このような恵みは、死んで浄土に往生すると知った者だけが感じることのできる、念仏の副産物である。念仏は、この行為によってすべての人が我が浄土に生まれ変わるようにと阿弥陀仏が願った、ただひとつの行為である。その、ただひとつの本願の行であるからこそ、これらの恵みが念仏する者だけに与えられる。法然上人は、このことも付け加えておられる。