3-4お念仏が内容的に勝れているということ

往生をめざす人が「南無阿弥陀仏」と称名するのは、阿弥陀仏が称名を往生のための行として規定しているからである。その理由で十分なはずではあるが、法然上人はあえてさらに上位の理由、阿弥陀仏がなぜ他の行為ではなく称名を選んだのかを考察している。それには二つがあり、一つはお念仏が勝れた行為であるということ(勝劣の義)、もう一つはお念仏は易しい行為であるということ(難易の義)だ。

初めに勝劣(しょうれつ)の義とは、念仏は勝(すぐ)れ、他の行は劣っているということだ。理由は何かといえば、阿弥陀仏の名号は万徳(=あらゆる徳)の帰する所である。したがって阿弥陀仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏など一切の内証の(=心の内にさとった)功徳と、相好・ 光明・説法・利生など一切の外用の(=外面に現れた)功徳が、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に集まっている。ゆえに名号の功徳は最も勝れている。他の行はそうではなく、それぞれ一隅(=四すみのうちの一すみ)を守る。このゆえに劣っている。俗世のものにたとえるなら家屋のようなものだ。その家屋という名の中には、棟・梁・椽・柱など一切の家具が集まっているが、棟・梁など一つ一つの名の中には一切を集めることはできない。これをもって知るべきである。したがって仏の名号の功徳は他の一切の功徳より勝れている。故に劣を捨て勝を取って、これを本願となさったのではないか。

お念仏が勝れた行為であるというのは法然上人に始まる説だ。従来は、念仏は内容の劣った行だが易しいので多くの人に実践できる、と位置づけられていた。それを法然上人が否定し、お念仏は内容的にも勝れていると唱えた。その根拠は引用したとおりで、これは源信曇鸞などがすでに表明していたことではあった。
とはいっても、「アミダ仏」という言葉を発することがなぜそれほど特別なのか、私たちにはすぐ納得できないところもある。アミダというのは一つの音のつながりにすぎないし、意味を取って「無量仏」と言うのとは何が異なるのか。阿弥陀仏が様々な功徳を体現していることはわかるが、その名前に功徳が含まれているとはどういうことか。
仏の名を唱えるという行為は浄土門の専売特許ではない。聖道門にもいろいろな行があるが、仏の名を唱えることにも、それぞれの文脈でそれぞれの意義があるとされてきた。仏の名を唱えるということは、仏のすばらしさを表現し、自らが仏に帰依することを表明する行為である。だから称名の「称」の字には「たたえる」という意味もあり、「南無」には帰命する、帰依するの意味がある。
アミダ仏という言葉は何かを指す言葉である。たとえ言葉はなかったとしても、その指すものは存在する。私たちはそれがどういうものか十分にはわかっていないが、それは存在すると私たちは考える。それを私たちは阿弥陀仏と名づける。したがって名づけ方は幾通りもあってよいはずだ。いまアミダ仏という名は、量られざる仏、無量なる仏という意味の梵語に由来する名である。
私たちはそれがどういうものを指すかを十分にはわかっていないが、言葉にできない真理の方面から私たちという存在に向かって働きかけるものであると考えており、その働きを受けたいと欲する。私たちは自分が何を欲するのかを明瞭には理解していないが、そのものは私たちが欲するもの、またその原動力になるようなもの、何でも持っている。私たちがそれらのすばらしさを余すところなく表現し、自らがそれに従うことを表明するためには、それを名前で呼ぶよりほかない。
名そのものは阿弥陀仏の一切の功徳を包括的に指し示す言葉であるが、とはいえ言葉にすぎない。それに「南無」をかぶせる、すなわち心の表明という自己の行為とすることで、阿弥陀仏のすべてを自己の行為に含めることになる。
仏のすばらしさを表現し帰依を示すことは、それ自体もすばらしい行為である。そのとき仏の一面ではなくすべてを余すところなく表現し帰依を示すことが、もっともすばらしい。それゆえに「南無阿弥陀仏」と称える行為は、もっともすばらしい行為といえるであろう。