8-3至誠心:動機の存在(1)

善導大師は、三心のひとつめの至誠心(しじょうしん)を「真実心」と言い換え、仏道を理解・実践するには必ず真実心の中に行わなければならないということだとしている。すなわち、外面に賢・善・精進(=賢く、善良で、努力精進する姿)を見せて、内心に虚仮(こけ=真実の逆)をいだいてはならない。むさぼり、いかり、よこしま、いつわりなど、いろいろの悪を犯したがる本性を消すことができず、まるで蛇・さそりのように毒をかくし持っているならば、外面的にいかに仏道の実践に励んでいようとも、それは雑毒の善、虚仮の行と呼ばれるべきで、真実の業とは呼べない。このような心で行を実践する者は、たとえ身心を苦しめ励まして日夜駆け回り、頭についた火を消そうとするかのように一生懸命であっても、すべて雑毒の善と呼ばれるべきである。この雑毒の行によって、阿弥陀仏の浄土に生まれようとしても、絶対に不可能である。なぜかといえば、まさにかの阿弥陀仏が本願を起こされたあと、菩薩の行を実践されたとき、どの一念一刹那(=ひじょうに短い時間)をみても、すべての実践を真実心の中になさり、また衆生にほどこされ自ら求められたことも、すべて真実であったからである。

これはややもすると「私たちは本性に悪を含んだ存在だから、阿弥陀さまのように外面と内面が完璧に一致するということは、どうやってもありえない」と言っているかのように聞こえる。なるほど、お念仏する自分の心をたずねてみると、正直かならずしも、この世をむなしく思い浄土を求めるばかりとは言いきれない。時に目の前のことに心奪われ、自ら心の課題と設定したはずの苦しみの解決を忘れ、阿弥陀仏の本願という救いの手のことを思い出さない。いや、むしろそちらが自分の本性なのである。しかし法然上人は、

外面に賢・善・精進を見せ、内心に虚仮をいだくとは、外面は内心の反対語であるから、外面と内心が調和しないという意味である。外面に賢・善・精進を見せ、内心に愚・悪・懈怠(=それぞれ賢・善・精進の反対語)をいだくならば、(賢・善・精進である)外面を内面に蓄えれば、苦しみの生死を抜け出す準備になる。
内心に虚仮をいだくとは、内心は外面の反対語であるから、内心と外面が調和しないという意味である。内心に虚・仮をいだき、外面に実・真(=それぞれ虚・仮の反対語)を見せるならば、内心を(実・真である)外面に合うようにすれば、苦しみの生死を抜け出す準備となる。

というように「私たちでも外面と内心を一致させることができる」という解説を付け加えてくださっている。本性に悪を含んでいることに間違いはないのだが、分相応に、外面と内心の一致が少しでもあればよいというのである。念仏なんぞまったく信じようとも思わないのに、ただ形だけを装うためにお念仏するような場合は、外面と内心が100%反しており、いくら熱心に励んでも至誠心をそなえたことにならない。だがそうではなくて、自己の苦の解決という動機によって、阿弥陀仏の本願にすがってお念仏する部分が1%でもあるのなら、その1%を至誠心と呼ぶのである。