10死に際の入信

阿弥陀仏がこの自分を救おうと誓い、その誓いを実現している。言い換えれば、たった一回「南無阿弥陀仏」と声に出すことによって、自分の死の際に阿弥陀仏が必ず来臨し、自分を浄土に連れて行く。これを直観した人は、「死」を越えてなお存在する自分、しかも正しく平和なあり方で永遠に存在する自分を直観している。
死によってこの人生はいったん途切れると、通常は考える。来世や生まれ変わりを考えなければ、それですべてが終わる。来世を考えた場合も、今の自分から何かが失われ、残ったものだけが来世に行くと考える。死によって何かを失う怖さは、変わらない。

観無量寿経』にいう。

さまざまな悪業を作った人がいた。大乗仏教の経典を誹謗することはなかったが、この愚人はいろいろな悪を行って恥じることがなかった。命が終ろうという時、導き手がその人のために大乗仏教の十二部経の首題の名字をほめ讃えるのに出遇った。その経典の名を聞いたことにより、千劫(という長い期間にわたって生死輪廻するに値するほど)の極重の悪業が除き去られた。その智者(=導き手)はまた、合掌して南無阿弥陀仏と称(とな)えることを教えた。仏の名を称えたことにより、五十億劫の(長い期間にわたって)生死(輪廻するに値するほど)の罪が除かれた。すると阿弥陀仏は、すぐに自身および観音菩薩勢至菩薩の化身を、その行者(=悪人)の前に遺わして、「善人よ。そなたは仏の名を称えたことにより、さまざまな罪が消滅したので、我れはそなたを迎えに来た」とほめた。

死に際に初めて阿弥陀仏の教えに出会い、これを信じた人がある。まず大乗仏教の概略を教わるが、あまり効果がない。上述した、死を越えてもなお阿弥陀仏に保証された自分を知ることによって、それまで無智な生活で積み重ねたものが初めて清算できるようになる。

知ったばかりの念仏を初めてとなえたその場ですぐに死んだとしたら、宗教の効果は少なかったと考えるのが通常の感覚かもしれない。その人生の大部分は迷いであって、最期に安らかに死ねたことだけが宗教の効果であったと。死んで行った人の感覚は違うはずだ。死によって終わらない自分を見つけ、まさにその時から生き生きと生き始めたのだ。

死の際の人までもを完璧に救うように、阿弥陀仏の本願は作られている。