15-3幸福への欲求による信仰の強化

諸仏による護念(=普遍性による信仰の強化)と阿弥陀仏および諸菩薩による護念(=阿弥陀仏の再認による信仰の強化)について述べたが、『選択集』は

常に一切の諸天および四天大王、龍神八部が、(念仏する人に)付き随って影のように護り、(念仏する人を)敬愛して会いに来るために、諸の悪鬼神や災い・障害・厄難が、よこしざまに悩乱を加えることは、永久にない。

のように続け、「諸天等による護念」を説いている。

人間は苦しみを厭い幸福を求めるが、現実には突如として病気・事件・事故・災害などの不幸が訪れることがある。だから人間は、そういう突然の不幸が起こらないように希望し、人知を越えた神を想定して、自らの幸福を祈ってきた。この祈りは、仏教における求道の心を起こす前から存在する、生存者としての素朴で卑近な欲求である。

ところで、念仏を始めた動機は、(そういった突然の不幸も含め、)生きること・死ぬこと全般にまつわる、より大きな苦悩を解決したいということであった(以前の記事参照)。生存者としての素朴な幸福の欲求を包含しつつ、それよりもスケールの大きな幸福をめざしているのであった。その大きな幸福が実現すれば、突然の不幸を避けたいといった素朴で卑近な欲求も、自動的に満たされる。念仏には、そのような動機で臨んでいるのである。

したがって、この素朴な欲求は、人間からの祈りに応えて、人知を越えた神の力によって満たされるのではない。そのような神には、この素朴な欲求を満たす力さえ存在しない(祈りによって不幸が止むのなら、病気や事故で死ぬ人があるだろうか)。これはいまや、念仏によって解決されるべき問題の一部となっているのだ。

もともと、不幸の回避を願うといった素朴な心情から生み出された神々は、いまや期待された力を持たない。神々は、自身に期待された役割を、念仏者の念仏に託してしまい、念仏者が念仏するのを応援する役割に回ることになった。念仏者に、卑近な幸福を願う素朴な心情がなくなった訳ではない。しかし、その感情が起こるとき同時に、そのために念仏しようと、気持ちに火がつくのである。

このように、幸福への欲求が念仏への意志に転化されることを、「諸天等による護念」の本質として理解することができるであろう。