14救いの普遍性

この自分が阿弥陀仏による救いを信じることができるのは、阿弥陀仏による救いをすでに受けている他者(法然上人、善導大師、お釈迦様など、あるいは身近な念仏者)を通じて、その救いが実際にあることを確認できるからであろうと述べた(「阿弥陀仏を自ら見つけるには」)。

ここで“法然上人”と“善導大師”は歴史上の人物である。一方“お釈迦様”は、ここでは“『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』等によって阿弥陀仏の救いを説いた教え主”を意味している。我々は、これらの経典の多くが、歴史上のブッダの説いた教えそのままではないことを、近代的な文献学の成果として知っている。しかし文献学の知見は、これらの経典が匿名の仏教者たちによって作成され、それを支持する仏教者たちによって伝持・発展させられたものであることも同時に示している。これら歴史上の仏教者たちの集合体として、この“お釈迦様”はとらえられる。善導大師も法然上人も、その流れを受けている。“身近な念仏者”も、そのもっとも下流に位置する仏教者である。

私たちが実際に接触する経験を持てたのは、これら歴史上あるいは現実の仏教者たちだけである。この限定性は、私達の経験の限定性に由来するものであり、仕方のないことである。限定的ではあっても、実際これらの仏教者に触れて信を起こすことができたのであるから、この限定性が信仰上の問題となることはない。しかし、思想の普遍性を問題とするときには、私たちの信の根拠がこれらの人物たちだけであるとすれば、それらはいくぶんか特殊的であって、普遍性に欠けるきらいもないではない。

人が生の苦を問題として解決を求めたとき、それが誰であれ必ず同一の道に辿り着くとすれば、これは、その道が誰かだけの特殊な道ではなく普遍的なものであることを示している。たとえば、上記の仏教者の流れに触れ得なかった人が、独自に道を求めた結果、同じ阿弥陀仏の救いという道に辿り着いたとすれば。そしてそのようなケースが無数にあったとすれば。

実際『阿弥陀経』には、この世界の外にある多数の世界でも、お釈迦様と同じような各世界の仏たちがいて、「阿弥陀仏の救いは真実である」と証言していることが説かれている。これは、阿弥陀仏の救いという思想が普遍性のあるものであることを主張している。

阿弥陀経』に言うように、(東西南北上下の)六方にそれぞれガンジス河の砂の数ほど(に無数)の種々の仏がいらして、みな舌を伸ばして三千世界(=その仏の世界いっぱい)を覆って、(次のように)まことの言葉を説かれている。仏の在世の時もしくは仏の滅後の一切の造罪の凡夫が、ただ回心して阿弥陀仏を念じて、浄土に生まれたいと願えば、上は百年を尽し(て念仏した者から)、下は七日、一日、十声、三声、一声等(しか念仏しなかった者)に至るまで、命が終ろうする時、仏が聖者たちとともに自ら来て迎え、すぐに往生させる(のだと)。(善導大師『観念法門』)

この言説自体が『阿弥陀経』やその流れにある仏教者の言説であるのだから、これが上記のような普遍性の直接の証拠となるわけではない。しかし自分に縁のある仏教者がこのように阿弥陀仏の救いという思想の普遍性を説いていることから、信仰上の立場として私たちは、次のように信じるべきであろう。すなわち、阿弥陀仏の救いという答えは普遍的なものであって、仏教者でなくとも、道を求めるすべての人が、最終的に辿り着くべき道であるのだと。