13生の終着地に待つもの

阿弥陀経』の中で、お釈迦様が、聞き手の舎利弗(しゃりほつ)に対し、

少なき善根・福徳の因縁によって、かの(=阿弥陀仏の)国に生まれることはできない。
舎利弗よ。もし、善良なる(=仏の教えを疑わぬ)男子や女人が、誰かが阿弥陀仏のことを説くのを聞いたとする。そして(阿弥陀仏の)名号をひたすらに称えること、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日、心を(浄土に生まれることだけに)一すじにかけて(他の雑多な行いに)乱されることなければ、その人の命が終わろうとする時には、阿弥陀仏が、諸々の聖衆とともに、その人の前に現れおいでになる。(そのため)この人の命が終わる時には、その心は転倒することなく、すぐさま阿弥陀仏の極楽国土に往生することができる。

とおっしゃった。

法然上人はこの文を、「少なき善根」と「名号をひたすらに称えること(=念仏)」の対比ととらえ、念仏以外の種々雑多な行いを“少なき善根”、念仏を“多き善根”であると解した。そして、この文によってお釈迦様が、雑多な行いを勧めず、ただ念仏だけを勧めたと理解した。

ここには、臨終に阿弥陀さまが現れるので心が動転しない、とある。

法然上人は、『選択集』とは別のところであるが、「臨終が思うようでなくても、念仏すれば往生する」「この(=死の)苦しみからは逃れられないので悶絶するかもしれないが、息絶える時には阿弥陀仏の力で正念になって往生する」という。これは、死ぬ間際には苦しみのために念仏できなくとも、日ごろ申している念仏によって最期には心が静かになるというのである。

生きている自分が、生きることに苦しみを感じるから、念仏を始めたのであった。そして阿弥陀仏が自分の生の終着地点で待っており、そこからは阿弥陀仏の安楽の世界に生かされることを知った。これを知った喜びによって、“多き善根”である念仏を一生称えてきたのであった。いよいよその終着地点に立ったとき、“多き善根”を行ってきた念仏者は、死の苦しみの中にも、その喜びの極みを感じるのではないだろうか。