15-2阿弥陀仏の再認による信仰の強化

阿弥陀仏による救いということは、たとえ自己の周辺の特殊な経験であっても、信仰者自身にとっては構わない。しかし、これが普遍性を持つ救いであるとされることで、信仰はさらに強化される。「諸仏による護念」をそのように解した。

ところで、

ただ六方の如来のみが、(念仏の)行者を護念するのだろうか。六方の如来に限らず、阿弥陀仏、観音等もまた、(行者のもとに)来て護念したまうのである。

とあって、「阿弥陀仏による護念」および「観音・勢至菩薩等による護念」も説かれている。

阿弥陀仏による救いを実際に感じ取った他者を手がかりとして、私達は阿弥陀仏の存在を確信する(「阿弥陀仏を自ら見つけるには」)。そして次には、自身にもその救いが届いていると感じ取ることができる(「深心:阿弥陀仏の本願の確信(2)」)。このような経験は、阿弥陀仏を(部分的にであれ)感じる経験であると言ってよい。何よりもこの経験が、人に阿弥陀仏の救いを信じさせるのである。

こうして開始された念仏の生活の中で、阿弥陀仏を感じる経験を繰り返すことがあれば、その経験はさらに信仰を強くするように作用するであろう。このように、初めて阿弥陀仏の救いを信じた時と類似の経験によって、さらに信仰を深めることがある。「阿弥陀仏による護念」を、このように解することができるであろう。

また、阿弥陀仏の救いを感じる経験があるとき、そこには感じる対象としての阿弥陀仏が存在するにとどまらず、自分と阿弥陀仏を引き合わせた働き、言い換えれば、その経験を実現させた諸作用が存在することも忘れてはならない。阿弥陀仏による救いを人々に伝える教化者が、観音・勢至等の菩薩である。したがって、上記の経験によって信仰が深まる時、「観音菩薩勢至菩薩等による護念」も存在していると言えるであろう。(なお、観音・勢至二菩薩による護念は第十一章にも記述されている)