8-8回向発願心:生活の統一(2)

往相(おうそう)とは往生する相、浄土にむかう過程ということである。過去の自己の行為を振り返りながら、あるいは生活の中の日常的な行為をおこないながら、それらの行為の力をすべて投入して、自分が浄土に生まれ変わろうと願う。これは、浄土に往生する過程についての回向発願心である。
還相(げんそう)とは還(かえ)ってくる相、浄土に生まれおわったのち、再びこの世界に戻ってくる過程である。還相の回向とは、どのような行為をどのような目的に向けることであろうか。

ここで回向(=行為をある目的に向ける)というのは、かの阿弥陀仏の世界に生まれおわって、(もとの世界に)向きかえって大いなるあわれみの心をおこし、生き死にを繰り返す苦しみの世界に戻り入って、人々を教えみちびく(という目的に向ける)ことも、また回向というのである。

現実の世界の中で、自分の大切な人、愛する人が大いなる悩み苦しみに巻き込まれ、自分の力ではどう救うこともできない。そんなときは、その自己の卑小さに対する悔しさを、念仏にぶつけるのである。自分の生きる苦しみばかりを解決したいがために念仏するのではない。目の前で苦しんでいる、この愛する人を助けたい。阿弥陀仏の力によってまず自分がいち早く浄土に生まれ変わり、阿弥陀仏の力を得て、その力をもってこの人を助けに帰るために、念仏するのだ。
このことは、そもそも自分が浄土に生まれ変わるための念仏を、目の前の人を救うという目的に向け変えることであるから、回向というのである。これが還相の回向である。人を救いたいという気持ちは、必ずしも起こるものではない。還相の回向の心は、必ずおこさねばならないものではない。それよりも往相の回向の心を、第一に起こさねばならない。
ひとつの疑問がおこるであろう。浄土に生まれ変わるとはいっても、死んでしまっては愛する人を救うことはできないではないかと。しかし、浄土に生まれ変わったのちに、この世界に帰って人を救うことができるのは、阿弥陀仏が本願にそう誓ったからなのであり、阿弥陀仏の力でなしとげられることだ。阿弥陀仏が自分をかならず浄土に生まれ変わらせるという確信(=深心)を持ったのなら、阿弥陀仏が自分をかならずこの世界に舞い戻らせるという確信も持てるはずである。阿弥陀仏の意志として、肉体が死んで浄土に生まれ変わることを多少なりとも直観したならば、そのつづきとして、この世界に舞い戻ることも直観できるのだ。もちろん今のままの自分として戻るのではない。だが自分の延長がこの世界に舞い戻ることを予感できるのではないだろうか。
回向発願心は、つぎのようにまとめなおせるだろう。往相の回向発願心とは、何気なく過ごした過去の時間を反省する中で、あるいは目の前で進行する現実生活の営みの中で、日常のよき社会人よき仏教徒としての努力をも、阿弥陀仏の世界に生まれ変わるためのものと意味づけ直す心である。これによって社会生活・仏教生活のすべてが阿弥陀仏に関連づけられ、念仏の挫折を回避し、継続が助けられる。還相の回向発願心とは、日常のよき社会人よき仏教徒としての努力が、すべてそのままでは不完全であるけれども、念仏して浄土に生まれ変わることを通して初めて完全なものになると、念仏を意味づけ直す心である。これによって念仏が目の前の社会生活・仏教生活に関連づけられ、生活に打ち込むたびに念仏の心が湧き起こる。往相・還相とも、念仏と日常の生活を統一して継続する力となる。