15-1普遍性ということによる信仰の強化

阿弥陀仏による救いを実際に感じ取った他者がいて、その特定の他者を知ることをきっかけとして、私達は阿弥陀仏による救いを信じることができたのである。このように私自身の経験は特殊的であるけれども、阿弥陀仏による救いというその内容じたいは、道を求めるすべての人が最終的に辿り着くべき、普遍的な答えである。少なくとも我々は、自身の信仰の立場としてそのように受け止める(「救いの普遍性」)。

なぜそのような普遍性があえて説明される必要があるのだろうか。ある思想が普遍的であるということは、その思想が真理であるということの一つの目安である。信仰をする者にとって、自分の信じるものが普遍性を持つとすれば、そのことで信仰はますます強まる。『阿弥陀経』におけるお釈迦様の話の中では、東西南北上下の六方の無数の仏たちに「一切の諸仏が護念する、この(=阿弥陀仏による救いの)教えを信じなさい」と証言させている。普遍性が信仰に味方していることを、「諸仏が護念している」と表現しているのである。善導大師の『観念法門』にも、

阿弥陀経』に説くように、もし男子や女人がいて、七日七夜および一生を尽くして、一心にもっぱら阿弥陀仏を念じて(=念仏して)往生することを願えば、この人は、つねに六方の恒河沙(=数え切れないほど多く)の仏が共にやって来て護念していただけるので、「(諸仏が)護念する教え」というのである。

という。普遍性が信仰に味方する結果、信仰はますます強くなるのである。これを「念仏する者の周囲で諸仏が護念してくださるので、念仏する者の信心が守られる」というのであろう。

14救いの普遍性

この自分が阿弥陀仏による救いを信じることができるのは、阿弥陀仏による救いをすでに受けている他者(法然上人、善導大師、お釈迦様など、あるいは身近な念仏者)を通じて、その救いが実際にあることを確認できるからであろうと述べた(「阿弥陀仏を自ら見つけるには」)。

ここで“法然上人”と“善導大師”は歴史上の人物である。一方“お釈迦様”は、ここでは“『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』等によって阿弥陀仏の救いを説いた教え主”を意味している。我々は、これらの経典の多くが、歴史上のブッダの説いた教えそのままではないことを、近代的な文献学の成果として知っている。しかし文献学の知見は、これらの経典が匿名の仏教者たちによって作成され、それを支持する仏教者たちによって伝持・発展させられたものであることも同時に示している。これら歴史上の仏教者たちの集合体として、この“お釈迦様”はとらえられる。善導大師も法然上人も、その流れを受けている。“身近な念仏者”も、そのもっとも下流に位置する仏教者である。

私たちが実際に接触する経験を持てたのは、これら歴史上あるいは現実の仏教者たちだけである。この限定性は、私達の経験の限定性に由来するものであり、仕方のないことである。限定的ではあっても、実際これらの仏教者に触れて信を起こすことができたのであるから、この限定性が信仰上の問題となることはない。しかし、思想の普遍性を問題とするときには、私たちの信の根拠がこれらの人物たちだけであるとすれば、それらはいくぶんか特殊的であって、普遍性に欠けるきらいもないではない。

人が生の苦を問題として解決を求めたとき、それが誰であれ必ず同一の道に辿り着くとすれば、これは、その道が誰かだけの特殊な道ではなく普遍的なものであることを示している。たとえば、上記の仏教者の流れに触れ得なかった人が、独自に道を求めた結果、同じ阿弥陀仏の救いという道に辿り着いたとすれば。そしてそのようなケースが無数にあったとすれば。

実際『阿弥陀経』には、この世界の外にある多数の世界でも、お釈迦様と同じような各世界の仏たちがいて、「阿弥陀仏の救いは真実である」と証言していることが説かれている。これは、阿弥陀仏の救いという思想が普遍性のあるものであることを主張している。

阿弥陀経』に言うように、(東西南北上下の)六方にそれぞれガンジス河の砂の数ほど(に無数)の種々の仏がいらして、みな舌を伸ばして三千世界(=その仏の世界いっぱい)を覆って、(次のように)まことの言葉を説かれている。仏の在世の時もしくは仏の滅後の一切の造罪の凡夫が、ただ回心して阿弥陀仏を念じて、浄土に生まれたいと願えば、上は百年を尽し(て念仏した者から)、下は七日、一日、十声、三声、一声等(しか念仏しなかった者)に至るまで、命が終ろうする時、仏が聖者たちとともに自ら来て迎え、すぐに往生させる(のだと)。(善導大師『観念法門』)

この言説自体が『阿弥陀経』やその流れにある仏教者の言説であるのだから、これが上記のような普遍性の直接の証拠となるわけではない。しかし自分に縁のある仏教者がこのように阿弥陀仏の救いという思想の普遍性を説いていることから、信仰上の立場として私たちは、次のように信じるべきであろう。すなわち、阿弥陀仏の救いという答えは普遍的なものであって、仏教者でなくとも、道を求めるすべての人が、最終的に辿り着くべき道であるのだと。

13生の終着地に待つもの

阿弥陀経』の中で、お釈迦様が、聞き手の舎利弗(しゃりほつ)に対し、

少なき善根・福徳の因縁によって、かの(=阿弥陀仏の)国に生まれることはできない。
舎利弗よ。もし、善良なる(=仏の教えを疑わぬ)男子や女人が、誰かが阿弥陀仏のことを説くのを聞いたとする。そして(阿弥陀仏の)名号をひたすらに称えること、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日、心を(浄土に生まれることだけに)一すじにかけて(他の雑多な行いに)乱されることなければ、その人の命が終わろうとする時には、阿弥陀仏が、諸々の聖衆とともに、その人の前に現れおいでになる。(そのため)この人の命が終わる時には、その心は転倒することなく、すぐさま阿弥陀仏の極楽国土に往生することができる。

とおっしゃった。

法然上人はこの文を、「少なき善根」と「名号をひたすらに称えること(=念仏)」の対比ととらえ、念仏以外の種々雑多な行いを“少なき善根”、念仏を“多き善根”であると解した。そして、この文によってお釈迦様が、雑多な行いを勧めず、ただ念仏だけを勧めたと理解した。

ここには、臨終に阿弥陀さまが現れるので心が動転しない、とある。

法然上人は、『選択集』とは別のところであるが、「臨終が思うようでなくても、念仏すれば往生する」「この(=死の)苦しみからは逃れられないので悶絶するかもしれないが、息絶える時には阿弥陀仏の力で正念になって往生する」という。これは、死ぬ間際には苦しみのために念仏できなくとも、日ごろ申している念仏によって最期には心が静かになるというのである。

生きている自分が、生きることに苦しみを感じるから、念仏を始めたのであった。そして阿弥陀仏が自分の生の終着地点で待っており、そこからは阿弥陀仏の安楽の世界に生かされることを知った。これを知った喜びによって、“多き善根”である念仏を一生称えてきたのであった。いよいよその終着地点に立ったとき、“多き善根”を行ってきた念仏者は、死の苦しみの中にも、その喜びの極みを感じるのではないだろうか。

12浄土往生のための行為、再論

阿弥陀仏の浄土に生まれ変わって、生きる苦しみを解決したい。そのために自分は今、何をすれば良いのだろうか。これは初めの方でも発した問いであった(以前の記事参照)。
観無量寿経』では、お釈迦様が、質問者に向かって、さまざまな精神統一法や徳行を列挙し、それらを行うことで阿弥陀仏の浄土に生まれ変われるのであると説く。なるほど浄土に生まれるのは、すべての苦しみを解決するための究極のステップである。それに見合った精神統一の実践が必要だというのは順当である。あるいは仏教に帰依して大志を起こし、行いを正し修学して、地道にありとあらゆる徳を積み重ねるべきだと考えるのが普通である。
能力と環境にめぐまれ、それらに勇猛果敢に挑む人もいるだろう。ところが、才能や器量に限界があって徳の積めない人、それどころか、徳を積むという指針さえ不運にして知り得ない人もいるだろう。自分はどうであろうか。
よくよく反省してみれば、瞑想して精神を統一しようとしても心が言うことを聞かないのであり、徳を積むどころかそれ以上の悪業を重ねるだけなのである。こんな自分は浄土に生まれる資格がないと、阿弥陀仏はお見捨てになるのだろうか。
いや、逆に、そんな自分のありさまに自信を持って良いのだ。自分のような者を救いたいというのが、阿弥陀仏の広大なお慈悲の心なのである。その証拠に、阿弥陀仏は「ただ私の名を声に出して呼べ。そうすれば浄土に生まれ変わらせよう」と宣言しながら、自らの姿を現したのではなかったか。その広い広い御心に、ただただ心打たれるではないか。
だからこそお釈迦様は、説法を終えようとする段になって、教えを後代に残す役目の阿難尊者に対し、

おまえはよくこの語を伝えよ。「この語を伝えよ」とは「阿弥陀仏の御名を伝えよ」ということだ。

と告げ、念仏だけを後代に伝えるよう指示した。浄土に生まれ変わるためには、念仏だけが、本質的な意味のある行いなのだ。

11念仏する人に起こること

 『観無量寿経』にいう。

念仏する人は、

  • 人々の中でも白蓮華(のように美しき人)である。
  • 観世音菩薩と大勢至菩薩が、その人の勝れた友となる。
  • ゆくゆくは道場に坐す(=悟りを得る)であろう、また諸仏の家(=阿弥陀仏の浄土)に生まれるであろう。

阿弥陀仏は、私たちに死後の浄土往生を与えるために「南無阿弥陀仏ととなえよ」と語りかけている。お釈迦様や善導大師などの先人の足跡を見て、我が苦悩の解決がそこにあると直感し、「南無阿弥陀仏」と念仏を実践して答えるならば、どのような結果が待っているのだろうか。
白蓮華のように美しき人」とは、お釈迦様がじきじきに念仏するあなたを褒め称えた言葉である。また善導大師は『観経疏』で、これについて、

よく続けて念仏する者ははなはだ希有(=まれ)であって、これに比すべきものがまったくない。それゆえに白蓮華をひいてたとえとしていることを(この言葉は)明示している。(中略)念仏する者は、人々の中でも美しき人、人々の中でも霊妙にして美しき人、人々の中でも上等のうえにも上等の人、人々の中でも希有なる人、人々の中でも最も勝れた人である、ということである。

のように、さらに褒め称えている。念仏することが、お釈迦様の意にも善導大師の意にもかなっているからである。
観音菩薩勢至菩薩は、阿弥陀仏の左右に侍る菩薩であるが、阿弥陀仏の慈悲と智慧を形にして衆生に届ける伝え手である。阿弥陀仏の救済の意志を私に伝えた働きが、この二菩薩の働きなのであるから、当然、常にお念仏していれば、私はいつもこの二菩薩と共にある。二菩薩が、私に常に念仏するよう働きかけつづけるから、私はお念仏することを忘れないように護られ続ける。
お釈迦様や善導大師の意にかない、二菩薩の護念を受けることが、この世で肉体のあるうちに見ることのできる結果である。
また、肉体の尽きたのちには、阿弥陀仏の用意した浄土に生まれて導きを受け、それに従って、いずれ自らも悟りを得る。これは、まだ見ることができないが、我が苦悩が完全に解決され、そもそもの目的を達するという結果である。

10死に際の入信

阿弥陀仏がこの自分を救おうと誓い、その誓いを実現している。言い換えれば、たった一回「南無阿弥陀仏」と声に出すことによって、自分の死の際に阿弥陀仏が必ず来臨し、自分を浄土に連れて行く。これを直観した人は、「死」を越えてなお存在する自分、しかも正しく平和なあり方で永遠に存在する自分を直観している。
死によってこの人生はいったん途切れると、通常は考える。来世や生まれ変わりを考えなければ、それですべてが終わる。来世を考えた場合も、今の自分から何かが失われ、残ったものだけが来世に行くと考える。死によって何かを失う怖さは、変わらない。

観無量寿経』にいう。

さまざまな悪業を作った人がいた。大乗仏教の経典を誹謗することはなかったが、この愚人はいろいろな悪を行って恥じることがなかった。命が終ろうという時、導き手がその人のために大乗仏教の十二部経の首題の名字をほめ讃えるのに出遇った。その経典の名を聞いたことにより、千劫(という長い期間にわたって生死輪廻するに値するほど)の極重の悪業が除き去られた。その智者(=導き手)はまた、合掌して南無阿弥陀仏と称(とな)えることを教えた。仏の名を称えたことにより、五十億劫の(長い期間にわたって)生死(輪廻するに値するほど)の罪が除かれた。すると阿弥陀仏は、すぐに自身および観音菩薩勢至菩薩の化身を、その行者(=悪人)の前に遺わして、「善人よ。そなたは仏の名を称えたことにより、さまざまな罪が消滅したので、我れはそなたを迎えに来た」とほめた。

死に際に初めて阿弥陀仏の教えに出会い、これを信じた人がある。まず大乗仏教の概略を教わるが、あまり効果がない。上述した、死を越えてもなお阿弥陀仏に保証された自分を知ることによって、それまで無智な生活で積み重ねたものが初めて清算できるようになる。

知ったばかりの念仏を初めてとなえたその場ですぐに死んだとしたら、宗教の効果は少なかったと考えるのが通常の感覚かもしれない。その人生の大部分は迷いであって、最期に安らかに死ねたことだけが宗教の効果であったと。死んで行った人の感覚は違うはずだ。死によって終わらない自分を見つけ、まさにその時から生き生きと生き始めたのだ。

死の際の人までもを完璧に救うように、阿弥陀仏の本願は作られている。

9念仏生活の実践上の注意

称名念仏に統一された生活を継続していくために、具体的な4つの注意点(四修=ししゅ)がある。

  • 恭敬修(くぎょうしゅ):阿弥陀仏に関係するすべてのものに対して、うやうやしさの態度を持つことである。これは、高慢・尊大をいましめるものである。念仏を日々行っているうちに、私たちの心には、自然に高慢・尊大の態度が湧き、これによって念仏生活がさまたげられる。
  • 無余修(むよしゅ):人生の苦しみに対処するための行為として、阿弥陀仏に関係しない一切の行為をいましめるものである。私たちのまわりには、阿弥陀仏以外の形での宗教宗派・主義信条があふれている。理由あって捨てたはずのそれらを、誤って再び拾い上げることで、念仏生活がさまたげられる。
  • 無間修(むけんじゅ):阿弥陀仏に関係する行為を、常に持続させることである。これは、怠けをいましめるものである。私たちは、日常のことや本能的欲求に心をとらわれ、また他の宗教宗派のことや無用の哲学などに夢中になって、念仏生活がさまたげられる。それに気づいたら、反省して、念仏に戻るべきである。

これら、「高慢」「他の信条」「怠け」は、念仏生活を挫折させうる三大原因である。「恭敬修」「無余修」「無間修」は、これらの三大原因に用心し、念仏生活を続けていくための注意点である(「怠け」は特に手ごわいので、「無間修」は最も大切である)。ということは、これら三つは、一生涯続けていくべきものである。その点を、長時修という。

  • 長時修(じょうじしゅ):念仏生活を、一生の終わりまでやめないことである。これは、退転・挫折をいましめるものである。念仏生活は、高慢と、他の信条に影響されることと、怠けによって、挫折しやすいのである。

これら四修という注意点を守ることで、無事に念仏生活をまっとうし、目的(=浄土への往生)を達成すべきである。
法然上人は別のところで、さらに具体的な念仏のやり方として、一日に繰り返す称名の数の目標(=日課)を決めておく、というやり方を強く勧めている。念仏の数そのものが重要なのではない。ただ、怠けによる挫折を防ぐために、日課を定めるのである(以前の記事参照)。