下流社会 新たな階層集団の出現(三浦展著、光文社新書)

これは妻が義父から借りていたのを読んだもの。
下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)
有名な本なので詳細は語らないが、アンケート調査の解析によって現代社会の新たな階層「下流階層」の出現を読み取っている。あくまで統計的処理によって見えてくるものなので、私たちのひとりひとりがどの階級に当たると言い切れるものではないはず(煙草を吸っても癌にならない人がいるのと同じ)。なのに著者の提示する「上流」「中流」「下流」という類型が、どこの誰それというイメージと共にハッキリと思い浮かぶのは、怖い。
本書の範疇からははずれるが、この階層社会は倫理的にはどう受け止めるべきなのだろうか。著者の論調は、下流の生活を余儀なくされるのは不幸であり価値が低いと言っているように聞こえる。下流の人は哀れむべき人なのか。人はひとりひとり輝いており、上流でも下流でも尊い人生なのではないのだろうか。かと言って、下流の人生に満足して自堕落に生きることがよいことなのか。
階層を決めるのは「金」である。お金が労働の対価だとすると、それはその人の社会貢献の印である。多く稼ぐことはたいてい、社会貢献の度合いが大きいことを示す(もちろんお金で測れない貢献も、和顔愛語から、家事・育児、奉仕活動、宗教活動までたくさんあるのだが)。とすると、上流であることは、大きな貢献をしていることなのだから、倫理的にも上流をめざすのが善いことになる。では下流であるのは悪いことなのか?
ここには、善人・悪人と阿弥陀様の救いのアナロジーがある。最低限の社会貢献だけをして自堕落に生きるのは、善人ではない。しかし阿弥陀様の救いは、そのような自堕落な人にも、大きな貢献者にも、平等にもたらされるべきものである。常識的には、それは不可解なことである。しかし宗教的自覚においては、どんな階層の者であっても、自分の本性は自堕落なのであり、自分の貢献はとるに足らないものなのだ。どれほどの貢献をなす者であっても、阿弥陀様の前では平等であり、それぞれにできる貢献をなすことが同等に尊く、それぞれがそうして向上してゆくべきなのだ。
上流でも理想を失い歩みを止める者は自堕落、下流でも正当な理想を掲げ歩むものは尊い、のではなかろうか。